Ours is essentially a tragic age, so we refuse to take it tragically. The cataclysm has happened, we are among the ruins, we start to build up new little habitats, to have new little hopes. It is rather hard work: there is now no smooth road into the future: but we go round, or scramble over the obstacles. We've got to live, no matter how many skies have fallen. This was more or less Constance Chatterley's position. The war had brought the roof down over her head. And she had realised that one must live and learn.
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2013年 05月 14日
高山彦九郎顕彰碑
お馴染みの1ショット・・・・といっても、対象自体はお馴染みでも、この部分に限定すれば、あまり注目されていないみたいだから「お馴染み」とは言えないかも知れない。それが土下座こと、高山彦九郎像の副碑である。
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石碑の碑文をあれこれ弄るのが好きだから、歌碑、句碑、文学碑、顕彰碑etcはこのブログでもたびたび取り上げている。しかし、書かれている内容がどういうことかといったところに関心が集中するので、文字それ自体に向かう意識は希薄だった。それは、実際に筆をとって文字を書くことが皆無になっていることの結果であるのは言うまでもない。自筆でまとめておけば意外に喜んでもらえるということもあるので、ちょっとした礼状なら手書きのペン字にするのがせいぜいで、ある程度のまとまった文章になるとパソコンでつくるものとの発想が最初に来るようになってしまっている。

もちろん、意識が字に向かったところで、高名な作家先生や書家様の書いた文字の巧拙をとやかく言う能力を持ち合わせているわけでもないし、ましてや字掘りの技法を議論する眼力などあろうはずがない。なんとなくの雰囲気で好き嫌いをいうのが関の山だろう。しかし、このところ看板文字をいくつか注目していて、そうした視点もあるのだなということがわかってきたのは収穫なのかも知れない。

と、例によって前置きをダラダラやってしまっているが、本題は高山像の副碑である。八ッ橋の看板文字のところでも触れたように、揮毫は徳富蘇峰。とりわけ読みづらい文字はなく、見ての通り「高山彦九郎先生皇居望拝之址」と書かれている。このほど、改めてその掘りを眺めてみたわけだが、どうやら筆圧に応じて掘りの深さを変えているらしい。全体的に縦線は豪快にかなり深く掘られており、横線は縦に比べれば相対的に浅くの傾向がある。さらに特徴的なのが「之」の字で、二画目の上から下へ払う部分は、墨のかすれを現してるのだろうか、意図的と思える掘り残しが見られる。

字掘りを見るというのがどういうことなのか、実のところ、まったくわかっていない。それを承知の上で観察してみて気づいたことを書いてみた。見る眼のある人にかかれば、論ずるに値しない戯言と片づけられるに違いないが、この手の話で盛り上がることができるとすれば、案外おもしろそうな気がする。

なお、彫り師に関するデータは、背面に記されている。「請負人 北白川 内田鶴之助 彫刻者 岩知道忠」とのこと。

*上に貼り付けた画像は自動縮小がかかっているために、掘り方が云々といったところはわからない。ということで、原寸をこちらからどうぞ。




(おまけの小ネタ)「高山彦九郎先生」のあとにスペースがあって、次の行の頭から「皇居」と始まっているのは、文字の配置を工夫して全体のバランスを取っているわけではない。「皇居」という言葉に敬意を表するために改行を施しているからで、こうした書き方を平出という。

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by office34 | 2013-05-14 23:13 | 街角の風景
2013年 05月 12日
廣羣鶴かな?
北野天満宮に菅原道真詩碑があることは以前に紹介したことがある(参考までに)。碑面に刻まれているのは『菅家文草』からのもので、一応、問題は解決していたつもりだったが、そうは問屋が卸さないとなったようだ。

「神製」と題が掲げられ、二編の詩からなる本文と建碑のいわれを記した副文からなるわけだが、今回、再考が必要になったのは、一番最後に刻まれている石工の名前である。写真で撮ってきたものを見たままに読んで「東京 廣羣鵬刻」としておいたのだが、ここに問題が起きた。「廣羣鶴」ではないのかということである。
江戸時代から続いた店石屋で、その内容を多少なりとも聞けたのは広群鶴(東京都台東区谷中)だけであった。「群鶴は江戸一の大石屋」と谷中育ちの古老や明治生まれの職人達がいうように、関東でも一二を誇る大きさの石屋であったらしく数多くの碑の字掘りを手掛けている。
『碑刻』(森章二氏,2003年,木耳社)


森章二氏の『碑刻』という本を読んでいて、初めて「廣羣鶴」の名前を知ったのだが、その時にひらめいたのが、そういえば天神さんの道真詩碑にそんな名前があったような?ということだった。それで確認してみると、記事には「鶴」ではなくて「なお碑の右下には小さな文字で『東京 廣羣鵬刻』とある。石に刻んだ彫り師の名前だろう」と書いてしまっている。改めて写真をチェックしても、やはり「鵬」と読めてしまうのは、異体字に対する知見の乏しさかも知れない。あるいは、似たような屋号でまったく別人ということなのかも知れない。ともかく、よくわからないのだが問題発生ということで、写真の拡大版を出しておこう。ささやかな問題提起のつもりである。
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by office34 | 2013-05-12 03:53 | 歌碑・文学碑など
2013年 05月 02日
5月の神泉苑
神泉苑が面白そうだという噂を聞いたので覗きに行ってみた。5/3が神泉苑祭で、1日~4日には境内の狂言堂で神泉苑大念仏狂言が行われているとか。とはいえ、行われる法要に興味があるわけでもなし、面白そうだという声がちらほら聞こえてきたから、イベントの雰囲気でそれっぽくなっているに違いない境内を覗くぐらいはしてみようか程度の魂胆である。

それで実際に訪れてみると、ちょうど見頃を迎えているツツジや、神輿の前に立てられている剣鉾など、それなりの見どころは確かにある。また天邪鬼向けには「やる気がほとんど感じられない露店」など、ツッコミどころにも事欠かない。そうした意味で、面白いといえば、確かに面白い部類に入れていいだろう。「面白そうだ」といった人が、果たしてどういうニュアンスでの面白さを期待していたのかはわからないが、きっと満足できたと思う。それはさておき、当方の関心にヒットした部分を言うとすれば、やはりなにやら意味深な「石」の存在が挙げられる。それが墓標であることは、形の上からもほぼ間違いなのだが、なぜこんな場所にこんな墓標が?といった方向で興味が刺激されたのである。

具体的に見てみよう。幸い、神泉苑の公式サイトがあり、そこに境内の見取り図があるのでそれを参考にしてもらえればわかりやすい。その墓標らしきものがあったのは、弁天堂に向かって右手、鎮守稲荷社の方向へ歩いてすぐのところである。池のほとりにツツジの咲く植え込みがあり、そのすぐ横に祠と、その基部に小さな墓標が二基置かれていた。神泉苑の歴史的なところをいえば、平安時代云々の話はこの際、関係ないと明言しておくべきである。王朝時代にたびたび饗宴が催された後院の「神泉苑」とは別に、その名前を掲げて江戸時代の初期に再興された寺院の神泉苑を念頭に置く必要がある。そうすると、寺院であれば塋域をもっていても不思議ではないのではないかという話も出てくるだろう。しかし、今回、目に止まったそれは、たいていの寺院に見られる墓園ではなかった。その祠と二基の墓標だけがポツンと道ばたに置かれて、他には何もないのである。檀家を供養する云々の場所ではないということである。それで、なんだろう、これ?と視線が引き寄せられて、おもわずへぇ~と呟いてしまったのが「元禄十五午年」という年代が確認できたからである。さらに呟きが、ほぇ~に変わってしまったのが、そこに刻まれていた名前が「幻生童子」なるものだったからである。

即座に人物と結びつく名前ではない。おそらくは夭逝したか、あるいは流れたかした子供の戒名か何かだろう。しかし、たとえそうだったとしても「幻生童子」とは何とも意味深ではないか。パブ犬的に霊幻道士のキョンシーの姿が頭をよぎったものだから、必要以上に意味深に捉えてしまった部分もあるが、それでもやはり「幻生童子かぁ。ほぇ~・・・・・・」である。

ちなみに、その隣にあったもう一つの墓標は、中央の名前は解読が難しいが、文化元甲子と読める文字列が確認できた。元禄の幻生童子と年代的に離れすぎているとところから考えて、後世のいずれかの時期に、この場所に並べておかれたものに違いない。

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ツツジの季節、この眺めは素直に褒めるべきだろう


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わずか数本とはいえ、神泉苑と剣鉾の組み合わせは悪くない


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手作りスマートボール? 一等に入ればたこ焼き6個だそうな


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亀に碑を背負わせる(亀趺碑)にしても、ニュアンスが違う気がする


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蕪村句碑発見、かなり新しそう


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霊幻道士ならぬ幻生童子の墓、元禄モノでござる

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by office34 | 2013-05-02 23:54 | 京都本・京都ガイド
2013年 04月 03日
北白川の忠孝碑
北白川の丘の上に「石工共和組紀念碑」というものがある。これは明治時代に結成された石工さんたちの組合を記念するもので、少し調べるとそれなりの情報も出てくる。またその側には「照高院宮址」と刻された碑もある。読んで字のごとく、照高院宮という今は亡き宮家を追慕するもので、これまた調べればそれ相応のことはわかる。ところが、共和組碑と宮碑の間にある一基、これはどうだろう。
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達筆すぎて解読不能・・・・・・となっていたのだが、よくよく調べてみると、いしぶみデータベースの照高院宮址碑のページに情報が記されていた。同ページでは「照高院宮址」と刻んだ碑を正面から撮った写真と、もう一枚、側面から撮ったものを並べて掲載しているのだが、「照高院宮址」と刻したものを乙碑、もう一つ(上掲のくずし字の碑)を甲碑と呼び分け、側面から撮ったかのように見える写真はその二基、共和組紀念碑と併せれば三基が並んでいることを伝える1枚であるらしい。

照高院宮址碑の方はページのタイトルにもなっているので、一番最初に確認する情報源だったのだが、実はそのページ内に、もう一つ詳細不明としていた碑に関する情報も記されていたというわけである。

ということで、改めて書き出してみる。碑面のくずし字は、明治元年に照高院宮を継いだ智成親王の文字を刻んだもので「事君不忠非孝也(君に事へて忠ならざるは孝にあらざるなり)」と読む。『曾子』の一節で「曾子曰く、身なるものは親の遺体なり、親の遺体を行ふ、敢えて敬つつしまざらんや。居処荘うやうやしからざるは、孝にあらざるなり、君に事つかへて忠ならざるは、孝にあらざるなり、官に莅のぞみて敬つつしまざるは、孝にあらざるなり、朋友に信ならざるは、孝にあらざるなり、戦陳に勇なきは、孝にあらざるなり、五者遂らざれば、災親に及ぶ、敢えて敬つつしまざらんや」と続く箇所に出る。儒学イデオロギーの中でしきりに強調された忠孝を説くフレーズである。

碑の設置は、いしぶみデータベースがいうところの乙碑、つまり照高院宮址碑の方が明治三十五年で、智成親王手跡碑いわゆる甲碑(以後、忠孝碑と仮称)がその七年後の明治四十二年となっている。照高院宮址碑は東京遷都にともなって北白川の地が故地となったのち、その由緒を偲んで建立されたもので、忠孝碑はさらにのちに並べて建てられたもの。ということは性格的には異なっていることになり、別物として区別するべきだろう。いしぶみデータベースのように、同じページで「甲碑」「乙碑」として処理するのでは誤解も招きかねないということである。もちろん、誤解が生じたとき、誰が悪いかというと、同ページには備考で「甲乙の二碑あり」と明記されているのだから、斜め読みしかせずに忠孝碑の情報を見落としてしまう読み手の責任である。しかし世の中「とりあえず新井さんが悪い」じゃないけど、何か不都合が起きたときには他者に責任を求めたくなるのも常道、というわけで、あと少しだけ親切にしてほしかったかなという愚痴の一つをこぼしてみただけである。お粗末様。
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by office34 | 2013-04-03 12:47 | 京都本・京都ガイド
2013年 03月 24日
愛宕神社表参道にて
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愛宕神社参道の灯籠についてもう一つ。

黒門前にあるものを撮った一枚。形の上でも大きさの上でも際だったところは見られないが、後ろに回って銘を確認して驚かされた。どうも「元文」と読めそうな雰囲気である。改めて写真で確認すると心許ない部分も残るのだが、現地で確認した時には確かにそう読めたのでギクっとした次第。

元文とは吉宗の時代である。明治や大正程度ならともかく、吉宗の時代まで行ってくれると見方も変わるというもの。もちろん古さだけをいうのなら北野天満宮の絵馬をはじめ、そこそこ古いものと出会うことは少なくない。元文よりもっと古い寛文の銘入り鳥居も知っているし、なによりも有名な三条大橋西詰に残されている旧橋脚は天正の銘入りである。元文の灯籠は、それらと比べれば驚くには値しないのかも知れないが、たびたび前を通っていながら、気づかずにやり過ごしていたとなると、やはりチェックの一つぐらいは入れておくべきだろう。

ちなみに、現代の愛宕神社は参拝目線ではなく、ハイキングコースという方向で眺められることの方が多い。したがって灯籠に限らず、丁石や地蔵など、参道の各所に置かれているアイテムは距離の目安にこそなれ、個体でとりあげて特徴が議論されることは少ないように思われる。それで今回の愛宕登山では、そうした道ばたアイテムに目を遣りながら歩いてみたのだが、面白げでありながらデータのないものがけっこう多い。おいおい調べていかねばならないのだが、とりあえず、はたしてこれはなんでしょう?的な形で紹介してみる。

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黒門下でみかけた石碑。歌?のようなものが記されていて、裏には弘化の銘入り

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境内の奉納灯籠。竿のところを組石で作っているのは珍しい?


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これも境内でみかけた碑。黒門下のもの同様、そのうち翻字に挑戦する予定

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by office34 | 2013-03-24 23:52 | 街角の風景
2013年 03月 21日
石の声を聴け
『風の歌を聴け』のパロディではない。響きは似ていても村上ワールドはまったく関係しない。あるいはこんなタイトルを掲げるとスピリチャルなものを連想する人がいるかも知れない。パワーストーンに手をかざして、あちらとのチャネリング云々をこうした言い回しでする方もいるようだが、ここではそんな話も出てこない。出てくるのは石碑であり、松尾芭蕉である。

松尾芭蕉の『奥の細道』は幻想の旅だったという。旅の途次、各所での思いを綴った紀行文、俳文であるかの体裁をとっているが、実際に芭蕉が訪れた行程と『奥の細道』の中で文章化されている足跡とは重ならないらしい。その意味では『奥の細道』は大いなるフィクションだったということもできる。しかし、そのことは『奥の細道』を貶めることにはならない。むしろイメージ世界より紡ぎ出された言葉の結晶として、その完成度の高さこそが注目される。杜甫の「春望」を介在させながら「つはものどもが夢の跡」の句を導く、かの「平泉」の段はその最たる事例かと思うが、ここでは少しずらして「佐藤庄司の旧跡」の段を取り上げてみる。

佐藤庄司こと基治もとはるは奥州藤原氏の家臣。源義経に従って奮闘した継信つぐのぶ・忠信ただのぶ兄弟の父で、佐藤庄司旧跡は旅が瀬上の宿(現在の福島市瀬上町のあたり)にさしかかったところに登場する。
これ庄司が旧館也。麓に大手の跡など人の教ゆるにまかせて泪を落し、又かたはらの古寺に一家いつけの石碑を残す。中にも二人の嫁がしるし先まづあはれ也。女なれどもかひがひしき名の世に聞えつる物かなと袂ぬらしぬ。堕涙だるいの石碑も遠きにあらず。
『奥の細道』に描かれたこの場面は曾良の日記にも記録があり、芭蕉たちが実際に訪れていることは確かめられる。また「かたはらの古寺に一家の石碑を残す」というのも、曾良がいうところの「堂ノ後ノ方ニ庄司夫婦ノ石塔有。堂ノ北ノワキニ兄弟ノ石塔有」云々と符合する。佐藤一族の菩提寺である医王寺に足を運び、境内の石碑を見て伝説の主人公に思いを巡らせたのだろう。続く「中にも二人の嫁がしるし」については潤色が含まれるらしいが、興味深いのは「石碑」から想像の翼が大きく広げられて「堕涙の石碑」にまで及んでいる点である。

「堕涙の石碑」は「羊公碑」ともいう。三国志に登場する晋の武将羊〓ようこの顕彰碑で、その遺徳を偲ぶ人々が碑の前に涙したことが名前の由来。そのエピソードは唐詩にもたびたび引かれており、日本でも広く知られていた。『奥の細道』は、佐藤一族の菩提寺において継信・忠信兄弟の奮闘やその死を悲しんだ母のエピソードが涙を誘い、さながら堕涙碑のごとしといった文脈でまとめられている。
*〓:シメスヘンに古

堕涙碑は言うに及ばず、佐藤一族でさえ影が薄くなっている現代である。そうした事情を併せると、想像力の飛翔も「平泉」の段ほどの鮮やかさは感じられない。しかし鮮やかさの欠落は芭蕉の責任ではない。鍵となるエピソードから遠のいてしまった現代人の悲しさにすぎない。芭蕉の中では、眼前の石碑を契機としてイメージの世界が大きく広がっている。それは石の声が芭蕉の耳に届いたからに他ならない。

先日、愛宕山に登る機会があった。愛宕神社表参道の往復だったが、下りてきて渡猿橋の袂に梅の花が咲いている場所があった。年配の方を案内してのことだったので、ちょうどいいかと思って記念撮影を勧めてみた。そして、もののついで程度のノリで傍らの徳冨蘆花「自然と人生」碑を紹介したところ、思いの外、喜んでくれた。なんでも「僕らの世代なら蘇峰や蘆花は特別だから」とのこと。ご年配とはいえリアルタイムで徳冨兄弟を知っているとも思えないのだが、徳冨兄弟は昭和三十年代ぐらいまでなら幅広い層からの支持があったのだろう。四十年代や五十年代でいえば亀井勝一郎だったり小林秀雄だったりのポジションに徳冨兄弟がいたということか。当方にすれば知識として知っているに過ぎない蘆花碑だったが、その方には琴線に響く何かがあったようだ。「石の声を聴け」に引きつけて言えば、当方には届かない声がその方には聞こえたのである。

清滝の蘆花碑に限らず、京都には面白い石碑がたくさんある。歴史関係の記念碑や歌碑・句碑など文学関係のもの、あるいは生活史的な色合いが濃い石碑もある。最近は愛宕灯籠に興味をもっているのだが、石碑の概念を少し広げれば、あれも生活史的な石碑のうちに含めることもできるだろう。

最後にPRを一席ぶたせていただこうと思う。
ちなみに、ここでいうPRとはPuerto Ricoのことではない、って当たり前か。

4/13に「まいまい京都」さんのところで北白川を舞台にした石巡りツアーを実施します。北白川エリアは古くから石工の里として有名だっただけあり、界隈を歩けばユニークな石造アイテムがいろいろと目に飛び込んできます。それらを題材にして、石の声へのアプローチをしてみましょう。

クダクダこ難しいものにするつもりはありません。知れば知るだけ深みにはまる石の世界、ひとつご一緒にいかがでしょうといったところです。







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by office34 | 2013-03-21 00:32 | 京都本・京都ガイド
2013年 02月 10日
「木戸邸」の碑 ~木屋町をあるく(10)
舎密局跡を過ぎると、土手町通を直進して丸太町通へと行きたいところだが、ここで寄り道一つ。土手町通に対して一筋東の路地に入ると、京都市職員会館「かもがわ」なる施設がある。この土地の来歴をたどると木戸孝允の旧邸に行き着く。敷地内には現在も離れ家のような建物が一軒、木戸孝允の頃からのものとして保存されている。原則非公開だが、特別公開のイベントもあるようなので、そんなタイミングに出くわした時には立ち寄っておきたい場所の一つである。ちなみに、広辞苑の編纂で知られる新村出は、一時期、この場所に住んでいて、引っ越す際に家屋ごと移築したとか(いしぶみデータベース「新村出博士旧宅」より)

当方はこの木戸邸にも新村邸にも入ったことがないので、建物それ自体を詳しく紹介することはできない。それをことわった上で周辺ネタを取り上げるとすれば、木戸邸であることを伝える石碑の数には注目してもいいだろう。敷地内に2基、門前に1基、近隣に2基、トータルで5基の石碑が木戸邸の存在を告げているのである。一つの物件に対して5基とはかなり多いと考えるのだが、それは裏返せば木戸孝允の存在感というか、平べったくいえば木戸人気みたいなものがあったように思えてならない。

桂小五郎こと木戸孝允は、大久保利通や西郷隆盛とともに維新の三傑とも称せられる。ところが、この三者が対等に扱われているかというと、そうでもなさそうなのである。いしぶみデータベースに登録されている範囲でいえば、大久保や西郷に関する石碑は「大久保利通旧邸」の碑(京都市教育会,S2)と「大西郷月照謀議旧趾」の碑(中村天一,T8,既出)の各1基ずつなので、木戸邸の碑の多さは際だっているといっていい。木戸邸という点を取り上げているのではなく、明治天皇の行幸場所というところで注目されているのだという解釈も可能だが、それにしても5基は多いのではないか。

明治になってからは、当然のことながら大久保や西郷だけでなく、木戸も活躍の舞台を東京へと移している。違いをいうとすれば、木戸が京都に別邸を維持していたことだろうか。ではそれだけで京都における重みを増していることになるのだろうか。あるいは、真偽のほどはさておき、幕末期に京都でドラマチックな活動をしていたことが影響しているのだろうか。それとも人生の終焉を京都で迎えていることをもって、他の二人と扱いが異なっているのだろうか。厳密なところはよくわからないのだが、大正から昭和初期にかけて京都で行われた顕彰運動では、三傑の中では木戸孝允はとりわけ異彩を放つものとして受け取られていたように感じられる。歴史的評価はともかく、現在では坂本龍馬が非常に大きく認知されているが、それに似た風潮があったのかも知れない。





(プロローグ)木屋町界隈をあるく / (1)高山彦九郎像 / (2)三条大橋西詰の高札場 / (番外)赤松小三郎と山本覚馬 / (3)佐久間象山遭難碑、大沢商会 / (4)木屋町の寓居碑 / (5)御池大橋西詰の「療病院址」碑 / (6)河原町御池・幕末から明治へ / (7)河原町御池その後 / (8)木屋町二条、島津の作業場 / (9)明石博高と舎密局 / (10)「木戸邸」の碑 / (11)丸太町の女紅場 / (12)鴨東の牧畜場 / (13)荒神橋の京都織物会社本館 / (エピローグ)第一期京都策の時代 /
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by office34 | 2013-02-10 23:16 | 京都本・京都ガイド
2013年 02月 03日
木屋町の寓居碑 ~木屋町をあるく(4)
ようやく三条を後にして木屋町へ入る。まずは、木屋町通をまっすぐ北上して御池通までの区間。たらたらと歩くだけなら平穏無事のうちに通過できるが、コネタを拾いながらのゴタク並べとなると、一筋縄ではいかないブツがけっこう転がっている。路傍のあちらこちらに見かける石碑群である。
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フィールドミュージアム京都の「いしぶみデータベース」で見ればわかるように、木屋町界隈は実に、その手の石碑の密集地帯なのである。逐一ここで取り上げるのは気が引けるのだが、気になる部分がないわけでもない。それが以下の三基についてである。
  1. 「吉村寅太郎寓居之址」碑
  2. 「武市瑞山先生寓居之跡」碑
  3. 「佐久間象山寓居之址」碑
「寓居」とは一時的に身を寄せる仮住まいのこと。嘉永六年(1853年)の黒船来航より後の、いわゆる幕末期、京都であれこれごそごそとやった面々が住んでいたとされる場所である。その中で、上の三基を取り上げたのは、当面のターゲットである木屋町の三条~御池に存在しているといった物理的な事情だけではない。この三基がみな「寓居」の所在を告げるものであり、かつみな幕末ネタということで、同類の三基と見なされがちなのだが、少し注意してみると首を傾げざるを得ない部分が見えてくるからである

具体的には、「跡」と「址」の違いだったり、2の武市瑞山だけに「先生」が付けられている点である。そのあたりが気になってこだわってみると、確かに2だけが異質である。というのは、1と3は左右の面に設置主体である「京都教育会」の名前と、設置年月である「昭和三年×月」が彫られているのに対し、2は右側面は刻字なしで、左側面には「武市半平太(月形半平太)」とある。「京都教育会」の名を刻む1と3が、いわばひな形であるとすれば、こともあろうか、架空の人物である月形半平太の名前を呼びだしているあたり、2はあまりにも異質と言わねばならない。歴史上の人物の寓居をいう碑と「ちりめん洋服発祥の地」なる企業PRの碑との違いぐらいの懸隔がありそうだ。

京都市歴史資料館の紀要19号(H.15)に「京都市域に於ける史跡石標建碑事業について 附幕末の石碑を訪ねて」という記事が掲載されている。これは石田孝喜氏が2002年に霊山歴史館で行った講演「幕末の石碑」に基づいて、その内容を文章化したもので、石碑の種類や建碑のいきさつ等々のレポートになっている。そこには「京都市教育会の事業推進記録」という資料が昭和42年に市の観光課に提出されたことが記されている。大正四年に発足した京都市教育会の事業の概要をまとめたものらしいが、提出された資料には上記三基が揃ってリストアップされている。ということは、武市瑞山の碑も京都教育会の事業と見なすことはできる。しかし、書き方のスタイルが違い過ぎているのは厳然たる事実なのだから、そこに何かの理由を見つけねばならない。

あくまでも推測の域を出ないのだが、現在、見ることのできる「武市瑞山先生寓居之跡」碑は実は建碑当初のものではないと考えるのはどうだろう。京都教育会の事業で武市瑞山の寓居を示す碑が置かれるには置かれたのだか、何かの理由によってそれが撤去(破損?)された、そしてそこに碑があったことを覚えていた地権者?が数年が経過した後に形のよく似た碑を作って置いたという想像である。SAKIZOによるPR碑も形がそっくりなので事情を知らない人が見ると寓居碑と同類と思ってしまうかも知れない。石碑が伝えている内容は昔のものと変わっていないが、スタイルは変わっていることの理由を探すとすれば、そのあたりのような気がする。
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by office34 | 2013-02-03 23:56 | 京都本・京都ガイド
2012年 10月 17日
俊寛僧都忠誠碑@鹿ヶ谷
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文学碑というには少し毛色が違うが、大河ドラマ「平清盛」でもそろそろ登場しそうな感じなので、俊寛碑の紹介をしてみよう。大文字山山中、鹿ヶ谷の奧に「俊寛僧都忠誠之碑」という石碑が置かれている。昭和十年に置かれたもので、西垣精之助なる人物が自費で土地を買い取り、建碑したという。この西垣氏については、祇園十二段家の創業者と説明するサイトもあるが、当方では未確認。

さて、その俊寛碑だが、存在感たっっぷりの巨大な碑である。「俊寛僧都忠誠之碑」と刻まれた一基と、それが置かれた謂われを記す副碑からなる。副碑に刻まれた碑文は、長尾雨山(wikipedia参照)によるもの。俊寛碑自体の紹介は少なくないが、いかんせん、副碑の碑文の方はこむつかしい漢文がタラタラと並ぶためか、中身への言及は多いとはいえない。

とはいえ、この種の資料をまとめて紹介する京都市歴史資料館のいしぶみデータベースにあたると、きちんと登録されており、碑文の書き取りから内容の紹介もなされている(俊寛碑のページ)。ただ、碑文は大意の紹介にとどまっているので、厳密な読解にはなっていない。正面突破を試みると、どうも一筋縄ではいかない言い回しがかなり放置されているのである。「大意」と断っている以上、扱いに落ち度があるわけではないのだが、梗概での理解に留まるよりは、きっちり読めた方が楽しい。というわけで、いしぶみデータベースが示している「大意」に基き、碑文の読解に挑んでみることにする。

この手の碑文一般のことだが、この俊寛碑でも句読点は用いられない。そのため、どこで文を切るのかは大きな問題となる。今回は「大意」で施されている句点に即して原文を区切り、碑文と「大意」の文章を対照させてみた。結果、碑文とストレートに向き合う場合に比べると、はるかにわかりやすくなった気配である。


---以下、いしぶみデータベースによる---------------------

俊寛僧都鹿谷山荘遺址碑記
自古志士憤権姦暴虐劫上残下図除之以安天下
昔から心ある人は権力者が暴虐のかぎりを尽くすことに憤りを持ち,こいつらを一掃して人民を安心させようと計画したものであった。
事成則為義挙
その事が成功すれば「義挙」と讃えられた。
不成則乱賊
しかし失敗すれば「乱賊」とののしられたのである。
豈可徒執成敗之迹以」推断情偽
ナシ
況史書所伝往々為権家曲筆千載之下何以取信乎
だから世に伝える歴史というものはあてにならない。
平清盛弄権擅為威福族党挙為朝官」采邑半於天下視天子如家人子弟苟有不便於己者更立無憚至一時有二三上皇
平清盛は権力をほしいままにして,天皇さえ自分の好き勝手に即位させ,気に入らない者は退位させた。
而其虐百姓甚於」土芥民怨且懼道路以目(闕字)後白河法皇患之亦末如之何
ナシ
於是有俊寛僧都鹿谷山荘之会権大納」言藤原成親為(闕字)法皇執事与其子成経謀奉(闕字)院宣討平氏院北面藤原師光藏人源行綱検非違」使平康頼等与焉
ナシ
俊寛(闕字)村上天皇七世孫寛雅之子以僧都為法勝寺執行素深嫉清盛不臣及聞」成親等計慨然密相結託約率奈良僧兵応之数会山荘計事
俊寛は村上天皇の末裔で,清盛のやることを憎んでいたので,成親等の計画を聞き,いざという時には奈良興福寺の僧兵を率いて味方するという密約を結び,自分の山荘で仲間と計画を練った。
将襲平氏部署已定未発行綱走告清盛」清盛大怒殺師光流成親放成経康頼俊寛於硫黄島尤悪俊寛
ところが,蹶起直前に行綱が清盛に密告し,俊寛は同志とともに硫黄島(鬼界島)に流された。
既而成経康頼赦帰俊寛独餓死島中」時年三十七
ほかの者は罪をゆるされて都に帰ることができたのに,俊寛はひとり島に残され非業の死を遂げた。
見其尤悪於清盛可以知材略卓異致心王室之深矣
清盛がいかに俊寛の知略を憎んだかがわかるだろう。
夫俊寛緇徒也
俊寛は僧侶である。
身居方外烏有冀世」栄之意其攘袂奮起者唯由不忍坐視平氏横暴上下窮蹙而已使其事成天下蘇息朝威得振而世必」以為義挙矣惜豎子反覆*事
僧侶の身でありながら謀議に加わったのは,平氏の横暴を見るに見かねて立ち上がったのだが,つまらぬ裏切り者のせいで謀反の罪を着せられたわけである。
空銜積寃七百餘年史書亦無白其志乃山荘則委為狐兎巣窟寒烟蔓」草無復過問
俊寛の志は歴史の書物にも無視され続け,山荘の跡は草に覆われ獣の跳梁する地になってしまった。
不亦可悲乎
悲しいことである。
西垣精之助君素負気節以鼓起世道人心為念
西垣精之助さんは気骨のある人で,世の中に正義を訴えることを常に思っていた。
一夕夢遊山荘
ある夜,夢の中で俊寛の山荘を訪れた。
覚而捜訪」其地樹石一如所夢見
目がさめて夢の光景を求め,この地に来たところ,まわりのようすは夢と寸分も相違がなかった。
心異之遍検書史知俊寛志存于義憤也
不思議に思い,歴史書を読みあさり,はじめて俊寛が義憤から清盛に逆らったことを知った。
欲建碑以彰遺址而慰寃魂擲購地」二千餘歩
そこで俊寛を顕彰しその魂魄を慰めるために石碑を建立したいと思い,二千歩あまりの土地を購入した。
一条実孝公#其志手書俊寛僧都忠誠碑七大字$之
一条実孝公はその志に感じ「俊寛僧都忠誠碑」の七文字をお書きになった。
乃屬予作文記之
また,わたし(筆者長尾甲)に碑文を書くように言われた。
%得以此白其」寃且伝遺址于後於世道人心其有所裨乎謂之君志
もしもこの碑が俊寛の冤罪をそそぎ,世のためになるようなことがあれば,それはすなわち西垣さんの意図したことなのである。
昭和十年歳在乙亥九月 香川長尾甲并&書 西垣精之助建

「*」「#」「$」「%」「&」は外字。上掲サイト参照。


大胆な要約や切り捨てられた文言もかなりあるようだが、おいおい訓読文に直していこうと思う。


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俊寛碑の近くには、人工的な石組みが多く見られるが、はたして?

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by office34 | 2012-10-17 03:57 | 歌碑・文学碑など
2012年 07月 27日
千代の古道
いつまでも祇園祭ネタがトップに居座っているのもなんなので、ちょっと違う話を出してみよう。といっても面白そうには思えないが、そのあたりはまあご勘弁。

というわけで、言い訳モードからのスタートだが、とりあげるのは「千代の古道」なるものである。右京区のあたりをぶらぶらしていると、そう刻まれた石碑が目に留まるので、そういうものがあるのだろうということは知っていたが、その程度の知識で留まっていた。いざ真っ正面から調べようとは思わなかったのである。ところが、ちょっと必要があって右京区界隈での街なかハイキングコースみたいなものを作ることとなり、その「千代の古道」を完全トレースするのはどうだろうという方向で考えてみた。

そうなると、「千代の古道」なるものの出自や沿革などを調べねばならないわけだが、ここで大きな問題が出てくる。「千代の古道」という言葉自体は存在するものの、それが実体的に存在した古道なのかどうか、甚だ怪しいのである。いわば「夢の浮き橋」とか「雲の通い路」とか言った感じで、具体的にコレと指示する対象が一つに限定できるわけではないが、なんとなく言葉の響きで趣ありげだから使われてきたものなのかも知れないということなのである。

アンチョコ本等での紹介をいくつか引いてみよう。
千代の古道
右京区常磐から広沢へ出る古い道で、往昔、山越からさざれ石の小山の西麓を西北に通じていた道。都から嵯峨院に通じる小道であったともいわれ、「嵯峨の山みゆき絶えにし芹川の千代の古道跡はありけり」(在原行平、『後撰集』)或いは「嵯峨の山千代のふる道あととめてまた露わくる望月の駒」(藤原定家、『新古今集』)などの歌がしられる。また途中のさざれ石山の頂には、その名の通りさざれ石と称される細石があり、「君が代」発祥の地とも伝えられる。(滝浪)
『新装京都事典』
千代の古道
古歌にも詠まれ、平安時代から親しまれてきた古道。この道を指すとされるコースは諸説があり、一定しないが、現在は京福北野線鳴滝駅北側から、音戸山の西側に沿って広沢の池に出る道とされているようである。きぬかけの路は市バス山越停留所を越えるとこの道に合流する。
『京都・観光文化検定試験公式テキストブック』
千代の古道
平安貴族が北嵯峨に遊行の折、通った道。雙ケ岡―常盤―鳴滝―広沢池を結び、新古今集の藤原定家の歌など、多くの歌にも詠まれている。しかし、道筋は地元自称など諸説があり、定かではない。なかには歌の上だけの道とする説もある。地名に「嵯峨野千代の道町」がある。


「千代の古道」という言葉が数々の歌に登場するのは動かない事実である。したがって、そう呼ばれていた道があったというところまではいいのかも知れない。上に挙げた中でもっとも慎重な立場を取るのは「京都観光NAVI」の説明なのだが、「歌に詠まれている」という事実までの認定に留めて、実体については「歌の上だけの道とする説」もあることを併記する。「北山」や「東山」という言葉が普通に使われていたとしても、そういう名前を持つ山があるわけではないのはよく知られていることだが、「千代の古道」についても"遥かな昔からある古い道"といった程度の、普通名詞的に捉えるのがいいようにも思われる。どうだろう、あるいは古い歌謡曲にある「鈴懸の径」とかいう具合の、イメージ先行の言葉にすぎず、そのイメージの根拠となった場所をあえて具体的に挙げろといわれるとできないこともない、といった程度のものなのかも知れない。

しかし、厳密な解釈はそれとしておいて、おおざっぱなネタの一つとして扱うのなら「ここが古歌でも有名な千代の古道ですよ」と言える物件が存在している方がありがたい。そんな立場とリンクしたのかどうかは知らないが、京都西ロータリークラブが設置した石碑は、千代の古道なるものを剛胆にも実体化させている。アンチョコ本の多くがそう書いているように北嵯峨および広沢の池のあたりを通るルートはもちろん含んでいるが、それとは別に梅津から帷子ノ辻のあたりまでも千代の古道のルートに措定されている。いしぶみデータベースによれば11基の石碑が確認されているようで、それとは別に梅宮大社の傍らにある1基と併せると、おおよそ以下の図のように線引きすることができる。
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このルートのうち、三条通と丸太町山越の間は碑もないので、厳密にいえば線でつなぐこともできないのだが、実体化させること自体がすでに強引な力業であるのなら、中間部分をつなぐこともそのついでということで許されるはずである。大覚寺を出発して南下するか、松尾大社or梅宮大社から北上するかはさておき、遍照寺などの立ち寄りスポットもあるわけで、それなりのお遊びルートにはなりそうな気配である。
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コース上のところどころにこうした碑が見られる。碑は2005年におかれた新しいもの。側面に和歌が刻まれているが、場所との関わりは不明。上の写真の和歌は、紫式部の「めぐりあひて」歌(百人一首所収)

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by office34 | 2012-07-27 13:06 | 街角の風景