Ours is essentially a tragic age, so we refuse to take it tragically. The cataclysm has happened, we are among the ruins, we start to build up new little habitats, to have new little hopes. It is rather hard work: there is now no smooth road into the future: but we go round, or scramble over the obstacles. We've got to live, no matter how many skies have fallen. This was more or less Constance Chatterley's position. The war had brought the roof down over her head. And she had realised that one must live and learn.
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2013年 12月 23日
祇園閣のキッチュ性 ~キッチュ愛(10)
また間隔が長くなってしまったが、祇園閣の話を続ける。文化財指定も受けており、非公開文化財の特別公開で数年に一度、公開される時にはけっこうな人気スポットになる建物が「キッチュ」という概念で捉えられるのかどうかという話である。キッチュの定義をめぐって煮え切らない長談義を続けてきたが、オーソドックスな理解でいえばキッチュなるものは近代社会の産物であり、イタズラにケバケバしいものといったあたりで理解できる。その一方でキッチュのキッチュたる所以である「ケバケバしさ」こそが大衆社会を象徴する要素であり、現代文明それ自体であるといった理解もある。そうなってくると、頭ごなしの否定は難しくなり、それどころか、油断していると肯定と否定がすぐに逆転してしまうことにもなる。したがってキッチュなるものの定義といった難問はひとまず脇に除けておいて、祇園閣がキッチュにあたるのではないかと感じた最初のところへ戻ってみる。

まず祇園閣の姿は異様に目を引くデザインであることは疑いがない。しかし、その異様さはどこから来ているのだろうか。山鉾の形から来るものなのか、それとも固定された建造物が山鉾を模しているという事実からなのか。あるいは井上章一氏が帝冠様式をキッチュと断じた根拠であるところの、取って付けたような和風テイストから来るものなのか。確かに祇園祭は、京都のシンボル的なイベントであり、山鉾はその代名詞でもある。しかし、山鉾の存在自体が美しいかどうかと問われるとどうだろう。歴史的なところを振り返っても美的センスの追求云々といった次元ではなく、鉾町に暮らす町衆の意地や虚栄が懸想品の豪華さを生み出していったのは事実だろう。より目立つもの、より豪華なものが求められていたのであれば、その先に生み出されてくるものは紛れもないキッチュである。祇園祭それ自体にキッチュ性が見いだされるとすれば、その華やかさないし繰り出される山鉾の豪華さを建造物に再現しようとする発想は、紛れもなくキッチュ志向である。見る者を驚かせるというニュアンスでいえば、楳図かずおのまことちゃんハウスに通じるものがあるのかも知れない。

なお祇園閣のキッチュ性を問うのであれば、その誕生秘話は紹介するに値する。大雲院の所有となっている祇園閣は、もともとは大倉喜八郎が晩年に建造したものであるのは、多くのガイドブックが紹介するところである。大倉財閥の創始者であり、日本近代を代表する政商、大倉喜八郎である。そうした事実だけで成金臭をかぎつける向きもあるが、こと祇園閣一つを取り上げてみれば、実は絵に描いたような成金ぶりが発揮されている。『鯰 元祖"成り金"大倉喜八郎の混沌たる一生』という本がある。喜八郎の息子、大倉雄二氏の著作である。サブタイトルにも現れているように無条件な礼賛に満ちあふれた偉人伝ではない。また同時代のルポライターがスキャンダラスに描く筆致とも違い、微妙な風合いを醸す喜八郎伝となっている。その中に、晩年のエピソードで祇園閣の一件が紹介されているのだが、描く対象と筆者との間合いが感じられる一節でもあるので、長めに引用してみる。
 喜八郎はいつのころからか、京都東山区祇園の円山公園に隣接する一帯、約五千五百坪を所有していた。通称真葛ヶ原といい、京都全市を一望のもとに納める高台である。
 ここを手に入れたのは、伊藤博文公の記念に神戸市へ大倉山を寄付したあとに違いない。京都に別荘を持つことが明治期の富豪のステイタスシンボルであった。山県有朋はもちろん、多くの貴顕富豪がこの地に洒落た庵を結んだ。のちに彼は、そのうちの二千坪を宅地にする。苔寺を模して杉苔を敷き詰めた庭には振りのよい赤松が風に鳴り、風雅な建物の蔀戸越しに東山が見え、杉戸を開けば鞍馬石のつくぱいの陰に微かな流れの気配がする。春はウグイスが啼き秋は雁が渡る。
 万事、源氏物語絵巻風なのは夫人の好みである。八十歳代にこれを建てた喜八郎は、ここを将来の隠居所にするつもりでいた。
 設計したのは日本建築界の草分け、伊東忠太である。ある日、喜八郎は彼を自宅に呼んで、別荘の敷地の中にこういうのを建ててくれと言いだして伊東をびっくりさせる。
「わしは子供のとき、雨風の強い日に使いに出されて、土手を歩いていると傘がおちょこになった。あの形が、あなた、面白いと思いましてね」
「私もありますよ。ぼっという音と一緒に傘の柄に来る手応えがたまりませんでした。思い出しますなあ」
「そうですか、あなたもあれが面白いとお思いか。じゃったら、わしの望みを聞いてくださらんか」
 彼が伊東に頼んだのは、おちょこになった番傘を高い屋根に載せた塔であった。それをこの苔庭のある落ち着いた京風の屋敷内におっ建てて、「わしという男が生きていた印とわしの幼時の記念にしたいのじゃよ。どうですか伊東さん」、とにこにこ笑っている喜八郎の顔を見たとき、彼は開いた口が塞がらなかった。
 一度言いだしたらそれが絶対命令の彼をよく知っているから、珍妙な石膏模型を造って彼に見せた。たぶんできるだけ恰好の悪い、どうやらオブジェのような見ただけでおかしくなりそうなのを造って見せ、「これはいかん」と言わせてそのプランは中止になった。
 しかし、喜八郎がおとなしく引き下がるはずはない。きっとまたへんてこな注文を出してくるぞと言っているうちに、研究室にまた電話がかかってきた。
 今度は、祇園の山鉾をそのまま建築にして高い石積みの上に二層の展望台を造り、京都名物にしたいと意気込んでいる。これは伊東も、前のよりはましだと引き受けた。
『鯰』(大倉雄二氏,文藝春秋社,1990)
真葛ヶ原に別荘を営むのはさておき、その庭にトンデモ物件を置こうとする発想に対しては好意的な評価は難しい。大倉雄二氏の筆に描かれる伊東忠太の反応も「伊東をびっくりさせる」「~開いた口が塞がらなかった」「またへんてこな注文を出してくるぞと言っているうち~」等々、喜八郎の依頼がトンデモ物件であったことを伝えている。この顛末は、喜八郎の追悼文集『鶴翁余影』によせた伊東忠太の文章が下敷きになっているわけだが、祇園閣の発端となった逆番傘タワーの計画は、今風の言葉でいえば、まさに"想像の斜め上を行く"ものだったようだ。そしてその逆番傘タワーはお蔵入りとなったものの、その延長線上にあって、まだ現実味の感じられるものとして出てきたのが祇園閣プランであった。とすれば伊東の判断で「前のよりはましだ」となったものであるにせよ、祇園閣も金持ちの道楽というか、成金趣味が炸裂するものであったことは想像に難くない。

ところで、喜八郎が第二案で出してきた山鉾風の楼閣に対して伊東が「前のよりはましだ」と判断したのは、帝冠様式が念頭にあったように思われる。井上章一氏に掛かれば、様式それ自体がキッチュとのレッテルを貼られるのだが、和風を前面に主張する近代建築は当時の伊東にとっても身近に感じられるテーマだったに違いない。

こうやって見てみると、モチーフとなった祇園祭にもキッチュに通じる属性があるだけでなく、祇園閣実現への局面の一つひとつにキッチュ性もしくはキッチュに隣接するなにがしかの要素が見て取れる。




【キッチュ愛】
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by office34 | 2013-12-23 18:43 | 街角の風景
2012年 07月 18日
飛龍有翼
14日の宵々々山から鉾町界隈をウロウロして龍を探してみた。もちろん、大本命は「飛龍有翼」の龍なのだが、祇園祭に登場する龍は他にどのようなのがあるのだろうという視点からの目配せもしておいたつもりである。そして、結果からいえば、かの「飛龍有翼」に合致するものは船鉾にしか見られなかった。金具まで含めてこまごまとチェックができたわけではないのだが、目に留まった多くは蟠った蛇体のものばかり。以下、いくつかランダムに選び出して写真を貼ってみよう。

a0029238_23351468.jpg

中央にいるのが船鉾の楫に施されている螺鈿細工の飛龍。やはりこれが一番だろうか。他はどうだろう。オマエ本当に龍なのか、どこかのネコが紛れ込んでいないかといってしまいそうなのもいるようだが、目に留まったところをざっと集めてみると、こんな具合である。
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by office34 | 2012-07-18 23:24 | 京都本・京都ガイド
2012年 06月 30日
祇園祭を前にして
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気が付くと、七月がそこまでやってきている。七月といえば、言わずもがな、コンチキチンの季節。そして祇園祭といえば、このブログでは以前に取り上げた「飛龍」の話が投げ出されたままになっているはず。祇園祭が始まる前に、なんとか片づけておこうと思ってはいたが、そう思うだけで作業の方は一向に進んでいない。と、七月を明日に控えて、そんなことをいったところでコトが運ぶはずもなし、とりあえずお茶を濁すようなマネぐらいはしておこう。

ことの発端は、ヨドバシ京都店の隣で展示されている大船鉾の骨組みにあった。それに掛けられている水引に描かれていた文様が出発点である。最初にそれを見た時には、龍の顔をした鳥が描かれていると考えた。一見して顔つきが龍であるのは分かるものの、立派な翼を翻していたからである。ところが、その後、お寄せいただいた情報により、あれは鳥ではなく「飛龍」というものだということが明らかになった。

ところがである。それだけでは話はすんなりと落ち着いてくれなかった。というのは、祇園祭の懸装品を紹介する写真集等を眺めていて、「飛龍」の名を持つ図柄はたくさんあっても、大船鉾の飛龍と合致するものが見あたらなかったからである。もちろん写真集で見ることができたのは、ほんの一部に過ぎない。それでも「飛龍」と銘打つもののすべてが胴長の蛇体をしていて翼は持っていない。大船鉾の飛龍のように、おもわず「鳥?」と錯覚してしまうような、寸づまりで有翼、そして尾羽根?尾びれ?まである龍は見あたらないのである。そんなところから、話はややこしくなっていった。名前は「飛龍」だとしても、そもそも「飛龍」とは何物ぞといった課題が浮かびあがってくる。

先に書いた範囲(以前の記事)のおさらいをしておけば、『和漢三才図会』(正徳二年?[1712年])に描かれている「応龍」が図柄的には大船鉾の飛龍と重なるというのが大きな収穫である。加えて、絵柄の共通性から迫れば、葛飾北斎の『諸絵本新鄙形』や享保三年[1718]の刊本(作者不詳、題簽欠)にも同じものが見られるというのも重要な情報である。なお『和漢三才図会』が手本とした明代の『三才図会』では「応龍」という名前の龍は描かれているが、その姿は大船鉾のものとはまったく異なっている。

その後、ぼちぼち調べていった中からは、船鉾の懸装や役行者山の金具にも同様の図柄が見られるということ、西本願寺の経堂の内壁を飾る伊万里焼に有翼・短胴の龍が描かれている、といったあたりが見えてきた。これらは『日本の文様29-龍・麒麟・鳳凰-』(昭和52年、光琳社出版)に紹介されていたものである。そして同書の解説には次のように記されている。
63.飛龍大蛇文角房掛金具      役行者山 江戸時代
64.黒漆螺鈿飛龍文揖          船鉾 江戸時代
65.柿右衛門 色絵飛龍文陶板 東京国立博物館 江戸時代
66.浪龍文歌舞伎衣裳     東京国立博物館 江戸時代
67.亀甲地段飛龍源氏車文唐織         江戸時代
68.赤緑地段青海波木瓜繋飛龍文唐織      江戸時代

龍の文様には色々変り龍が出てくる。その中の一つに飛龍文がある。63~68図はいづれもこの飛龍の文様である。飛龍は天界に住み雲間に乗じて天地の間を飛び交い、鳳凰を生むので百鳥の祖とも云われている。63、64図は京都祇園祭の山鉾を飾る飾金具と船鉾の揖(ママ,「楫」?)。波浪の上を飛び交う飛龍が力強く描かれている。65図は延宝五年(一六七七)に建立された京都西本願寺の転輪蔵の腰瓦として、四代柿右衛門一族に焼かせた陶板の一枚である。66図は板東三津江が明治三年、寿曽我対面を演じた際に用いた衣裳。白の呉呂に中国風な浪、飛龍を縫いであらわしたもの。67、68図は共に能装束の唐織にあらされた(ママ,「わ」脱?)飛龍文である。

ここでは「飛龍」の名で紹介されている図柄のすべてが短胴、有翼、尾羽根を特徴としている。解説の内容には分かりづらい部分もあるが、これらを「変り龍」と呼んでいるのは注目していいだろう。禅宗寺院の雲龍図に見られるような、普通に思い浮かべられるところの龍に対して、翼があったり、蛇体でなかったりするのは、やはり変種といってよさそうだ。こうした龍の姿は江戸時代の中後期あたりから見られるようになったようだが、それがいつしか「飛龍」という名に固定されたと見ていいのかも知れない。龍が天空を駆けるものであることは古くからの定説である。また「飛龍有翼」という記述も、中国の古典にあるようなので、雲龍図に描かれるものが本来の姿と決めつけるわけにもいかない。しかし、禅文化の普及が原因なのかどうかはさておき、室町時代には雲龍図の龍がスタンダードとなっていたのではないか。それが近世になってバリエーションを生み出していく中で、有翼の図柄と「飛龍」という名前が重ねられるようになったのかも知れない。

ともあれ、もっと広く資料を集めたり、あるいは掘り下げたりしければ、マトモなことも言えないのは確かである。ただ投げ出したまま祇園祭を迎えるのも気が引けるので、半端の極みを承知の上で、いい加減なことを書いてみた。なお船鉾の「飛龍」は、鉾の後ろの部分、すなわち「トモ」の部分が撮られている写真があれば、WEB上でも確認できる。西本願寺の「飛龍」は、腰瓦云々とあるところはよく分からないが、実は先の大遠忌のおり、経堂内部が公開されていて、そこで内壁に貼られていたものを見ることができた(撮影不可につき写真なし)
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by office34 | 2012-06-30 01:39 | 京都本・京都ガイド
2011年 11月 02日
龍の翼
大船鉾の鳥、もとい、龍の件以前の記事では「胴掛」と書いてしまったが、水引とするべきかも?)。お寄せいただいたコメントにより、正体が「飛龍」であることがわかったのだが、当方はずっと鳥の一種だと思いこんでいた。その最大の要因は胴寸が短いことにつきる。翼の有無については、有翼の龍という考えは浮かばず、短い胴体に翼がある鳥で、その頭に龍のような角とヒゲがあるタイプという方向ばかりを見ていた。蛇のような胴は、龍の龍たる特徴の一つと思いこんでいたのである。ところがいくつか資料にあたっていくうちに雲行きが怪しくなってきた。龍とは本当に胴長なのだろうか。

どの龍をもって典型的というかは難しいところだが、禅宗寺院の天井画にあるタイプはおそらく代表的なイメージの一つに挙げていいだろう。京都でいえば妙心寺や天龍寺の法堂に見られる雲竜である。前者は狩野探幽筆で江戸時代初期の作、後者は平成になって描かれた加山又造筆。その他にも相国寺や大徳寺などにもあるらしく、臨済宗と黄檗宗の公式サイトという位置づけになる「臨黄ネット」というサイトで見比べができる。時代もまちまちで、それぞれに特徴はあるものの、ざっと見る限りでは蛇体であることは共通しているようだ。これら雲竜図は当方の思い描く龍に直結しているわけではないが、間接的にはおそらく有力な源泉になっていると思う。

ところが、今回あらためて調べてみると、蛇体は龍を龍たらしめる決定的な要因とはいえない気配である。辞書的な説明をとってもそうである。たとえば現行の漢和辞典で「龍」という漢字を調べてみると
想像上の動物で四霊の一つ。つの、たてがみ、するどいつめをもち、うろこのある巨大な爬虫類の形をして、雲をよんで天に上り、あるいは淵にひそむ水神と考えられていた。
『新字源』
という説明がある。国語事典の方では「蛇形」という指摘が入るものもあるが、上記の例のように「爬虫類の形」とするだけであれば、蛇でなくてもいいことになる。

あるいは、辞書の古典とでもいうべき『説文解字』をみてみると、もっと興味深い説明となっている。。
龍 鱗虫之長、能幽能明能細能巨能短能長春分而登天秋分而潜淵
「鱗虫」は鱗のある生き物の総称で、龍はそのリーダーだという。問題はそのあとに続く「能×能●能△……」のところだが、「よく……できる」の意味で解釈するなら、「消えることもでき、現れることもでき、小さくなることもでき、大きくなることもでき、短くなることもでき、長くなることもでき」といったあたりだろうか。つまり明確な形状はなく、変幻自在だというのである。

このように言葉による説明だけを見ていると蛇体へのこだわりはなさそうで、先に見た禅宗寺院の天井画にあるタイプのものとは懸隔が著しい。現在、一般に「龍」という言葉でイメージされるのは後者のタイプと思うので、仮にそれを正統派の龍としておこう。そうすると、蛇体でなかったり翼があったりするのは非正統派になるわけだが、もともとは正統も非正統もない、対等の存在だったに違いない。大船鉾の懸装品に描かれた図案をみて、龍のような顔をしているものの、いわゆる正統派の姿ではないところから、鳥だろうと考えてしまったわけだが、どうやら正統派が幅を利かせるようになった後も生き残っていた非正統派の一種だったらしい。

ところで「飛龍」という名前だが、聞くところによれば他の山鉾の懸装品にも見られるとのこと。ただ、それらの「飛龍」がすべて非正統派の龍だったかというと、それは違っていそうだ。龍村美術のサイトには、沿革のところに同社が復元や新調で手掛けた美術品が紹介されているのだが、山伏山見送「飛竜波濤図」、黒主山後懸「緋羅紗地飛竜紋様綿入切付」、太子山見送「波壽に飛龍紋様錦」などの名前が挙がっている。このうち画像が確認できたのは、山伏山のものだけだが、写真を見る限りでは正統派の龍である。その他のものも、当方のあやふやな記憶では正統派だったように思う。したがって、大船鉾に描かれた「飛龍」は非正統派の姿をとどめるレアケースであるように思うのである。

図案ではなく、言葉としての「飛龍」を追いかけると、まず目に留まるのは『周易』「上経 乾」だろうか。おみくじめいた深遠な思想の解釈は手に余るが、天が健やかな状態である「乾」に関する説明で、潜龍・見龍・飛龍・亢龍・群龍が登場する。いわく、
初九、潜龍なり、用うるなかれ。九二、見龍、田に在り、大人を見るに利ろし。九三、君子、終日乾乾し、夕べに惕若てきじゃくたり。厲あやうけれど咎とがなし。九四、あるいは躍りて淵に在り、咎なし。九五、飛龍、天に在り。大人を見るに利ろし。上九、亢龍、悔あり。用九、群龍、首なきを見る。吉なり。
このうち五段階目の九五にいう「飛龍在天」は、龍が天に駆け上がった状態で万事が充実していることをいうのだろう。

龍はもとより空飛ぶものと思われていたので、この記述だけでその姿を議論することはできないのだが、屈原「離騒経」にいうところの「余が為に飛龍を駕し、瑶象を雑まじえて以て車と為す」になると、正義を貫くあまり世に容れられなくなった屈原が天へ飛翔する乗り物として飛龍が呼び出され、聖人の乗り物、翼のある龍という注釈が施される(許慎注らしいが原文未見)

これらより言葉としての「龍」を考えると、もともとは神出鬼没にて変幻自在、時には地にもぐり、時には水に潜み、時には天高く駆けるものと想像されたらしく、その天翔ける姿には翼が添えられることもあったということだろう。そんな龍が日本の言葉に定着する中では、「潜龍」には才能ある者が雌伏している状態を重ね、「見龍」に才覚が花開きはじめた姿を、そして「飛龍」には力を発揮している姿を見るようになった。『日本語大辞典』が「飛龍」の項を立てて、用例に引くものは、たぶんにそのラインに沿うもののようである。

一方、図案化された龍の中での「飛龍」は、龍の変相ではなく、龍族の中の一種と捉えられたようである。時代的な変遷を整理することはできないのだが、江戸時代の『和漢三才図会』の「龍蛇部」にみるさまざまな龍は、龍グループに属するところの種別を取り集めた感がある。そして、その一つに「応龍」なるものがあり、その姿は、大船鉾の飛龍と似ている。翼のサイズや尾羽の状態など細部を問題にしても重なるので、完全に合致するといっていいかも知れない。なお『和漢三才図会』が手本とした明の『三才図会』にも「応龍」は挙がっているが、その姿はどちらかといえば翼のある麒麟というか、ウルトラ怪獣のドドンゴに近く、『和漢三才図会』の「応龍」とは別物に見える。

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左:『和漢三才図会』の応龍  右:『三才図会』の応龍




-追記1-  2011.11.03
大船鉾の飛龍は、『和漢三才図会』(正徳二年[1712])の「応龍」に合致するのだが、それを「飛龍」と銘打つものもある。『図説・龍の歴史大事典』(笹間良彦氏,遊子館,2006年)に紹介されるところの、作者不詳、題簽欠、享保三年[1718]刊の本の挿絵である。また同書には葛飾北斎『諸絵本新鄙形』の「飛龍」も載せている。
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-追記2-  2011.11.03
『祇園祭山鉾懸装品調査報告書-渡来染織品の部-』(梶谷宣子・吉田孝次郎,平成四年,祇園祭山鉾連合会)の口絵写真に掲載されている範囲では、油天神山「波濤に飛龍紋様・中国織錦婦人官服」、役行者山「登り龍の図・中国絽刺刺繍掛物」、山伏山「飛龍に波濤の図・双頭額・中国綴織掛物」、船鉾「波濤に飛龍紋様・中国綴織椅子覆い」、芦刈山「波濤に飛龍紋様・中国刺繍官服」、岩戸山「龍紋並列紋様・朝鮮織錦反物」に龍の図柄が確認できる。しかし、これらには龍の顔を正面から描き、蛇体をくねらせているものが多い(山伏山、船鉾、芦刈山、岩戸山)。思うに「飛龍紋様」という名のもとで様式化された図案なのだろう。同報告書では触れられていないが、長刀鉾の見送りにも同じ図案が見られる。油天神山と役行者山のデザインは顔を側面より描く点で異なっているが蛇体である点は同じ。これらに対して、孟宗山「鳳凰と幻想動物に牡丹の図・中国刺繍掛物」にみられる「幻想動物」は非蛇体の全身が鱗に覆われ、羽根を翻しているところは「応龍」のようにも見える。ただし顔に角やヒゲは見えず、孔雀に通じるところがあり、詳細は不明である。ちなみに祇園祭の懸装品に龍のデザインが多数みられることに関しては、同報告書は「八坂神社は、古代にその辺りに湧く水があったことから、6世紀後半に住みついた人たちが豊作を祈願してその水を祀るようになり、神社となったと伝えられ、中国で発した古来からのいい伝えによる水を護る龍を拝んでいた。現存する懸装品に使われた渡来染織品、日本製染織品に龍の文様のものが多いのは、その初期からそのいい伝えを讃えていたことによるものであろう」と指摘する。
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by office34 | 2011-11-02 09:00 | 京都本・京都ガイド
2011年 10月 26日
ヨドバシの大船鉾
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大船鉾正面にみえる瑞鳥

ヨドバシ京都で大船鉾の展示が始まった。正確には骨組みと片面の胴掛のみの展示なのだが、2014年の巡行復帰を目指して制作中なのでやむを得ない。というよりは、制作中ながら展示に踏み切ったのは英断だろう。それに展示スペースを無償提供しているらしいヨドバシの方針もなかなかなものだ。宣伝費と割り切ってのことだろうが、五月蝿いだけのCMを流すよりは遥かによい。

ヨドバシの件はさておき、本題は大船鉾である。保存会の公式HPもあるので正確な情報はそちらに譲るが、このほど展示がはじまったとの報道を読んだので、出かけてきた。

山鉾の中でもユニークな形状をしている点で船鉾は注目されることが少なくない。ここに大船鉾が復帰してくると、鉾建て期間の見どころがまた増えてくるわけだが、このたび見ることができるようになったのは、その鉾建ての間に目にすることになる骨組みである。右側面には水引や胴掛などの懸装品が飾られていて、左側が剥きだしの骨組み状態での展示となっている。報道の直後だったことも影響してか、展示室内はそこそこの混み具合だった。

そんな大船鉾、実見してみて思ったのは胴掛や前掛(になるのだろうか不詳)に描かれている鳥についてである。瑞鳥であるのは確かでも、何を描いているのだろう。普通に考えると鳳凰かと思うのだが、どうだろう。瑞鳥とは、世の中に聖人が生まれるときに、それを予言するかのごとく出現するという鳥のこと。鳥ではなくて獣であれば、当然、瑞獣と呼ばれるのだが、有名なものはキリンビールのラベルにもなっている麒麟である。その麒麟に並ぶとも劣らないくらいの知名度を誇る瑞鳥が鳳凰である。

「瑞鳥」という単語は知らなくても、伝説上の有名な鳥で思いあたるものを挙げてくださいというアンケートを取ったりすると、おそらく不死鳥か鳳凰が大勢を占めるのではないか、まあ、そのくらいの知名度はあるはずである。ところが、いざ立ち止まって考えてみると鳳凰が羽根を広げて空を舞っている姿はあまり覚えがない。図案やオブジェになった鳳凰でよく紹介されるのは平等院の鳳凰堂である。あるいは金閣寺の天井にいるのも知っているが、それらは遠目で見る姿である。写真等で拡大されたものであっても留まっている姿だろう。それに対して、大船鉾の瑞鳥は羽根を広げて悠々と舞っている姿かと思われる。それ以前に鳳凰の顔はああいうものだったのだろうか。

通称名にもなっているところから分かるように、平等院阿弥陀堂の屋根に飾られているのは間違いなく鳳凰である。金閣寺の天井に留まっているのも、当方の記憶に間違いがなければ、鳳凰のはずだ。しかし、その顔にはヒゲもなく、大船鉾のものとは違っている。大船鉾の瑞鳥は、言ってみれば竜の頭をなにがしかの瑞鳥の体にくっつけたような、あるいは体には立派な鱗が備わっているところをみると、竜そのものの体を短くして羽根を付けたような、そんな感じなのである。

その昔、ウルトラ怪獣にヒドラなるものが登場していたが、それに近いような遠いような……というのは悪ふざけでも、どうも正体がよく分からない。胴掛にも同じような鳥が描かれているので大船鉾を象徴する動物になるかと思うのだが、根本的に鳳凰とは違う瑞鳥なのか、それとも独自意匠の鳳凰なのか、気になるところである。

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展示の全景と反対側の骨組

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どこかのHPから拝借したままPCの中で眠っていた鳳凰の画像、これは飛んでいるようだ

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by office34 | 2011-10-26 09:00 | 京都本・京都ガイド
2011年 07月 15日
新町通の電線
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まずはペタっと1枚貼ってみる。場所は、新町通三条のあたり。旬のネタに合わせた言い方にするなら、「八幡山のあるあたり」となる。この季節、京都の四条界隈とりわけ烏丸から西のあたりは山や鉾を抜きにしては、場所の説明もままならない。

さて、そう言う割には上の写真には山も鉾も写っていない。当然である。八幡山のあるあたりから北側を撮ったのであって、山や鉾が狙いではないからである。この場所、すなわち新町通には、船鉾や南北の観音山など、見映えのする山や鉾が並ぶ。そのため、宵宵山や宵山の日にぶらぶらするとすれば、お奨めのスポットとなるのだが、それも三条通を少し下がったところにある八幡山までの話である。それであれば、上の写真は何を狙ったのか。答えは電線である。

電信柱に黄色の覆いが掛けられているのは、背の高い鉾が至近距離を通過しても触れないように配慮しているのだろう。その点については、京のドル箱たる祇園祭を支えるべく、関電の秘かな努力に拍手の一つでも送っておきたいのだが、実は、この写真を撮るにあたって、大きな勘違いをしていた。それは、「関電は祇園祭に合わせ、毎年毎年、電線を片づけている」と思っていたのである。

狭い路地でも電線が縦横に張り巡らされていると、けっこう目立つ。しかし、日本ではそれが当たり前の景色になっているので、中空を無様に分断する電線の姿に特段の違和感は覚えなくなっている。そうした前提があるものだから、新町通でみかけた黄色い覆い付きの電柱と、電線に遮られずに通りを貫いて見渡せる光景からは、祇園祭の巡行(四条通、河原町通、御池通を進んだ山鉾は、最後は新町通を経て、それぞれの町内へもどる)に備えて、毎年、関電が電線を片づけているのだろうと思ったのである。仮に、この一大イベントのために毎年やっているのであれば、拍手の一つどころではなく、喝采ものだろう。上の写真を撮った時は、そうした思いがあったのである。それで、つらつら駄文をこしらえて、一度はブログに公開した。ところが、その直後にはたと思いついた。もしかして……新町通には最初から電線は張っていないのではないか?

そこで、記事をいったん引っ込め、改めてストリートビューで確認してみた。すると案の定、新町通には最初から通りを横切る電線など張られていない。新町通と並んで山や鉾の多い室町通はと言うと、菊水鉾が聳えるのが錦の南のあたりで、他は丈の低い山ばかりだから大丈夫という判断からなのか、それなりに横断型の電線も確認できる。それなら、あんまり騒ぎたてることもないか……といったところか。関電に対しては、黄色の覆いを被せている分だけ、ほんの少しの小さな拍手ということにしておこう。
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by office34 | 2011-07-15 02:48 | 街角の風景
2010年 07月 17日
祇園祭・鯉山異聞
 祇園祭の巡行を彩る山鉾には、それぞれに謂われがある。現在では、各鉾町の保存会が結成され、財団法人となっているところも多いので、そうしたところから出ている案内書をみれば、いわば公式見解としての由来を知ることができる。しかし、古い案内書の類を見ていると、そうしたものとは異なった由来が紹介されているケースもある。どちらが正しいかという視点で接すると意味のない堂々巡りに陥りかねないが、ちょっと風変わりな異説もあったという事実は注目してもいい。

 たとえば鯉山の場合。鯉山は室町六角の鯉山町から出る山で、「イ-リアス」図のタペストリーで知られている。「BB」とのサインが入る、このタペストリーばかりが注目されるので、彫り物の鯉自体は影も薄いのだが、左甚五郎作と伝える大きな鯉を載せた山はユニークなデザインの一つである。その鯉山だが、この鯉にはどのような謂われがあるのかといえば、「京都祇園祭 鯉山町衆」のHPに掲載されている公式見解によれば、いわゆる登竜門伝説をモチーフにしているとのことである。たしかに登竜門伝説の鯉であれば縁起物であり、祇園祭の山を飾るには相応しい。彫り物にはほとばしる水流も添えられているので、滝のぼりの姿なのだろうなと、十二分に頷ける。

 ところがである。府立資料館に所蔵されている『京都祇園会図会』(明治二十七年、浅井広信著)には
唐土[もろこし]龍門の瀧を模[うつ]せし物なりと云[い]へども日本風の宮殿あれば大和宇陀郡と吉野郡との堺にある龍門の瀧を模せし物ならん
という紹介がなされている。「~と云へども~ならん」との文型なので、一般的な説を紹介したうえで、反論もしくは独自の推測を添える形である。つまり普通に言われているところの「唐土龍門の瀧」云々はそれはそれと認めたうえで、あるいは大和の国の龍門の瀧を描いているのではないだろうかと異論を差し挟むわけだ。もちろん、根拠の弱い勝手な説といって、見なかったことにしてもいいのだが、同じく資料館蔵の刊年不明の刊本『祇園会細記』にも、ほぼ同様の説が紹介されている。これらから判断すると、『京都祇園会図会』のいう大和の国説は、浅井広信によるまったくの独自見解ではなさそうだ。しかも、登竜門伝説と比べると取るに足りないにせよ、それに対する異説として、いくばくかの支持はあったように思われる。

 また、この大和の国説とも異なり、登竜門伝説とはまったく重ならない説も一部には取り沙汰されていたようだ。これは緑紅叢書『京の話あれこれ その一』所収の「半兵衛老人昔語り」に載せられているものである。長くなるが、そのままの形で引用しておく。
現在の室町六角下ル所が鯉山の出る町である。この町にずつと古い昔のこと、露路に住つている大層正直な独り者があつた。すぐその近くに其の長屋の大家さんの家があつた。この大家と言うのが又大へん曲つたことの嫌いな男で、よく借家人の家を訪ねては親切に面倒をみていた。或る時、この大家はその正直な独り者の宅の入口で話しこんでいたとき『近年にない馬鹿を見てナ』と云い出した。それは所用があつて大津えゆき、渡し舟に乗り湖水に出たとき、懐中していた手拭を出そうとしてどうしたはずみか先程受取つたばかりの小判を湖中え落してしまつた。早速人を頼んで捜してみたがわからない。で、大家は--これは自分に授からなかつたものだろうから--と諦めて戻つてきたが、「人様に云うのも馬鹿げた話でナ。詰まらぬ目に遭つたものだよ」と云うのである。「それは酷い御災難でしたナ」と話し合つてから二、三日して、この独り者が大津から売りに来た川魚屋から鯉を一尾買い求めた、夕飯の御馳走にと料理していると、ナント、その腹の中から小判がとび出してきた。コレは不思議だ、先日大家さんが湖水で落したと云う小判がこれであるかも知れない、これはよい物が手に入つた、早速お返しして大家さんを喜ばせようと、料理もそのままに大家の宅へ出かけていつた。」
「ナント正直な男ではないかい。」
 と半兵衛老人はここで感心した様に考えこみ乍ら、もう冷えかかつた緑茶を一息ぐつと飲み干すと、
「それからが大変なんだ。この男は大家に会い、『お話の小判はこれではありませんか、お返しに上りました』と云うと、『成る程私の落した小判らしい、然しこの話はチット可笑しいじやないか。第一私はもう湖水え落したものなんだから二度と手に戻ろうとは思つていない。あんたは鯉を買つた、ところがその腹からこの小判が出てきた。しかしだね、あんたが買つた鯉の中から何が出ようとそれは皆あんたのものじやないかネ、だからそれはあんたが持つてお帰り』と。どうだね、この大家も豪い男じやないか。今時こんな人物はいない、ところがこの独り者もそのまま帰ろうとはしない。仮令買つた鯉の中から出たものであつても、あなたのものと知れているこの小判をどうして私が持つて帰れますか、是非お返し申しますと頑張る。大家は受取らぬと云う。遂にこの争いは上役人え訴え出た。役人もよく調べてみると双方共に私慾を離れた美しい心の持主であることが知れた。そして相変わらずその小判を返すと云い、受取らぬと云う。長屋の独り住いの男、気前のよい大家、流石に役人も感心してこの美しい争いは後世迄も美談として残したい。就いては双方共小判を受取らないのだから、幸い同町に住いしている彫刻の名人左甚五郎に頼み、その金で鯉を彫らせ、それをこの町内より祇園会に鯉山として出すことにしたらと云うので両人を褒め讃えて目出度く事件は解決した。どうだね、伝説とは言え美しい話ではないかね。」
 と老人は語り終つてもう一度感心するのだつた。
緑紅叢書10『京の話あれこれ その一』
(昭和33年、田中緑紅、京を語る会)
 古典落語かなんかで似たようなストーリーがあったような気もするが、記憶はさだかではない。件の小判を持って左甚五郎のところへ行った段階で、今回の話と登竜門伝説と重ねて、鯉の彫り物を作ってもらいたいと依頼したのであるとしておけば、どうにか辻褄も合うのだが、普通に考えれば、この話は登竜門伝説とは別ネタだろう。

 現在では保存会のパンフレットでも紹介されているように、登竜門伝説をモチーフとするとの理解が行きわたっていて、市販のガイドブックの類に載せられるときでも、保存会の言うところを大本営発表のごとく、そのまま書き写すのが普通である。諸説乱立を整理するのも大切なことだが、異説は異説としてその存在を認めておくことも必要ではないだろうか。


-巡行当日の朝、飾り付け中の鯉山(2010)-
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巡行で使われるのはレプリカ


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「波」を飾った上に「鯉」を載せる


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よく見るとヒゲがないみたいですけど・・・もしかして鮒山?

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by office34 | 2010-07-17 06:56 | 京都本・京都ガイド
2010年 07月 15日
祇園祭・巡行を前に
 四条界隈で祇園囃子が奏でられている時に、葵祭の話を始めると、目下のテーマからわざと目を逸らしているんじゃないかと思われる。しかし、そこには必然的な道筋がある。前回の記事でとりあげた、長刀鉾の鉾起こしからの流れである。祇園祭の見どころは17日の巡行とするのが一般的なのだが、それに対して鉾起こしを目玉にしてみようなど言い出すのは、一種のへそ曲がりである。ただ、こういう偏屈者は古くから存在しており、その代表格ともいえるのが、かの兼好法師だろう。まずは『徒然草』のよく知られた一節を引いてみる。
花はさかりに、月はくまなきをのみ、見る物かは。雨に向かひて月を恋ひ、垂れこめて春の行方も知らぬも、猶あはれに、なさけ深し。
新日本古典文学大系『方丈記 徒然草』より
 ざっと訳すと、こんな感じか。桜は満開の時に、月は満月をだけを愛でるものではあるまい。雨の夜に見えぬ月を偲ぶのも、また帳を下ろした屋内で春の移り変わりを知らないでいるのも、やはり心に染みるところがあって趣深い。

 一歩踏み込んでみると捉え方が劇的に変わってくる文言のようだが、ややこしくなる問題は忌避するとして、『徒然草』の中では有名な部類に入る言い回しであるには違いない。しかし有名といっても、章段全体の主旨からこの部分だけが切り離され、あれこれイジられているだけだという側面もある。というのは、この一節を含む章段は、桜や月の愛で方だけを言っているのではなく、葵祭を見物する態度について、長々と言葉を費やしているのである。言わば「花はさかりに、月はくまなきをのみ」云々は、後に続く葵祭論の導入と言った方がいい。そうであるにもかかわらず、「つれづれなるままに、日ぐらし硯に向かひて」に匹敵するくらい、月はさかりになんとやらとやられている。

 というわけで、ここではまずは、その章段の本題である葵祭論、といえば大袈裟なら葵祭観覧の心得から進めていこうと思う。そもそも兼好のいう心得とはどういうものなのだろう。目に前にある事物にしか関心が持てない連中は、行列が来たといってみっともないくらい大騒ぎをするが、都人はそんなものにはほとんど興味を示さない、と言い、こう続ける。
暮るゝほどには、立て並べつる車ども、所なく並み居つる人も、何方へか行き帰るらむ、ほどなく稀になりて、車どものらうがはしさもすみぬれば、簾、畳も取り払ひ、目の前にさびしげになり行こそ、世の例も思ひ知られてあはれなれと覚えたるこそ、祭見たるにてはあれ
となる。要約すると、行列が去っての夕暮れ、見物客もいなくなって牛車が立ち並ぶ煩わしさも薄れてくる、見物席の片付けも終わると、どこが寂しく世の例を見ているかのようだ、こういう味わいこそが祭を見たというものなのだろう……、といったところだろうか。メーンイベントで大騒ぎするよりも、終わった後の雰囲気を世の無常と結びつけて述懐しているわけだが、さあて、どうだろう。

 率直に言ってしまえば、けっこうなことをのたまいなさるものかな、というところだろう。『徒然草』に頻出する、田舎者はこうだが都人は云々という持って行き方がどうも鼻持ちならないのだが、ここでもその論法である。以前に『太平記』における塩冶判官の物語を紹介した折、ピエロのような役回りで兼好法師が呼び出されている場面にも触れた。高師直に媚びへつらって浅ましく振るまう「遁世者」としての描かれ方である。兼好法師ら遁世者が媚びる高師直などは、『徒然草』で言うところの田舎者にピンポイントで合致する。一方ではヘコヘコ媚びておきながら、一方では辛辣に批判し、時には愚弄する、この二面性が鼻持ちならないとの感想になっているのだが、一歩では到底間に合わないから百歩か千歩くらい譲って評すれば、そういうことをせねばならなかった時代であるとなるのだろう。ともあれ、支持不支持はともかくとして、「目の前にさびしげになり行こそ、世の例も思ひ知られてあはれなれと覚えたるこそ、祭見たるにてはあれ」とは、いかにも偏屈者の兼好らしい言い回しだと思う。

 さて、このまま葵祭と『徒然草』だけで終わってしまうと、コンチキチンが空々しく聞こえてしまう。そこで、こういう兼好風の見方を現代の祭り見物にスライドさせるとどうなるだろう、ということを考えてみる。ここへ来て、ようやく祇園祭の話へと戻ってこれそうな気配だ。とりあえず巡行は見ることにしよう、でもどういう見方をするのがいいのだろう、ということである。

 巡行を見るのであれば、いくつかのパターンがある。沿道に並んで見るとか、有料観覧席を購入するとか、KBSでの中継で間に合わせるとかである。労力が少ないのはTV中継で誤魔化すパターンだが、これはナマで見たことにならないし、自分の興味や関心に即した見方ができない。毎年のことだから、おおよその推測もできるのだが、テレビ番組お得意の平べったい紹介に終始するのは間違いない。番組コンセプトの裏には、常に視聴者のレベルが映し出されているというのであれば、視聴者もずいぶん見くびられたものだというしかない。

 こうした他力本願的な方法に対して、ナマで見るとすれば、いくばくか主体的な興味を反映させることもできる。しかし、同じナマでの観覧といっても、有料観覧席の場合は、座って楽に見られるというメリットこそあれ、最前列か、それに準ずるあたりを取れなかった場合は、主体的な興味どころではない。話のネタになればいいかといった程度のノリで、かつて一度だけ有料席からの観覧にチャレンジしたことがあった。前から四列目でだいたい真ん中くらい、けっしていい条件ではない。だが、幸いなことに、最前列を陣取っていたどこかの団体ツアーが長刀鉾から数えて十基程度が通過したところで立ち去ってくれたのである。その結果、当方を含め、近くにいて後方に甘んじていた人々は無事前列をせしめることができたのであった。こういう団体客が紛れ込んでいる可能性があるのも有料席ならではなのだが、こんなラッキーに出会うことがないと、場所が気に入らんといって移動ができるわけでもなし、巡行のすべてを他人様の頭越しに拝む羽目になる。そうなると、もはや代金の見返りはいずこという話だろう。

 もう一つ、選んだ場所をあからじめ確保して見るパターンだが、これは巡行の見どころをどこに設定するかによってアプローチも変わってくる。一般に見どころと言われているのは、パフォーマンスの色合いが濃い部分だろう。すなわち、(1)「ヤーソ-レー」の掛け声とともに長刀鉾が動き始めるところ、(2)麩屋町での注連縄切り、(3)籤改め、(4)四条河原町他での辻廻し、などなどである。あと一つくらい加えるのなら、巡行の締めくくりに相当するところで、(5)お終いの三三七拍子、これも面白いようだ。これらのうち、当方の場合、ナマで見たことがあるのは辻廻しだけなのだが、どのパフォーマンスについても、いいスポットを狙うのなら、早い時間からの場所取りが必要になる。そして、言うまでもなく、それ自体はしんどい作業でもある。それに、楽しくて面白いパフォーマンスが拝める、本当にいい場所というのは、いわゆる関係者用に宛てられているという事実を知ってしまうと、余所者の立場でガツガツするのは、かなり間抜けているようにも思えてくる。そこまでして「たゞ、物をのみ見むとするなるべし」(ひたすら目の前の事物をだけ見ようとしているようだ)と兼好に小馬鹿にされるようなことはしたくないかなぁと言ったところである。

 だが、だからと言って、巡行が終わって後かたづけも一段落、そのあとの寂しさに人の世を思う……なんてマネも阿呆らしい。兼好にどう言われようと、斜に構えるのではなく、一応の見どころというものは、それなりに見ておきたいと思っているのも事実。ただ、そのためには相応の苦労も伴いますよ、場合によっては徒労に終わりますと言われると、それならまあいいかと萎えた気持ちも湧いてくる。結局のところ、一度くらいは三三七拍子で締めるシーンを見ておくのも悪くないかなと思う程度で、それ以外ならテレビを通しての見物でも十分だろうというのが本音なのである。まあ、どう言えばいいのだろう、こういう具合に、半端なところで妥協してしまうから、大多数を占める愚かな視聴者群を生み出しているのだろう。
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by office34 | 2010-07-15 17:29 | 京都本・京都ガイド
2010年 07月 12日
祇園祭・長刀鉾の鉾立
 祇園祭のメーンイベントは17日の山鉾巡行である、と少なくとも世間一般ではそうなっている。しかし、世の中には天邪鬼と呼ばれる人種が存在しており、そういう連中に掛かると、いくつかの異論が出てくる。たとえば、祇園祭が八坂神社の祭礼であることを強調する天邪鬼なら、神幸祭(17日夕)や還幸祭(24日)を挙げるだろう。これは、観光化された祭りとはいえ神事であるのが原則だという一種の原理主義かも知れない。あるいは宵山(16日)、宵々山(15日)、宵々々山(14日)あたりの夕暮れに繰り出して町会所に飾られている屏風や前掛けなどの懸装品を見て回ったり、駒形提灯に灯の入った山鉾を見て歩くことに魅力を感じている人もいる。巡行の当日に比べると、美術品の数々が間近で見られる機会という意味では、耽美的傾向のある天邪鬼だ。

 しかし、天邪鬼とはすなわちへそ曲がり、その最たるものといえば、長刀鉾の真木が立ち上げられる様子を推す声だろう。見どころは山鉾だというのに、その山鉾が完成していない姿、弁護気味に言うのなら完成してゆく過程に面白みを主張しているのだから、天邪鬼そのものだ。しかし、それであっても、ちょっとしたビルよりは高くなる長刀鉾、その真木を横倒し状態の本体に装着し、あらためて正規の姿勢に直すシーンは、間近で見ると迫力があるには違いない。筋金入りの天邪鬼を自認する当方にとっては、二もなく賛成したくなる意見である。しかし、実はこの立ち上げの作業、いまだかつてその現場に立ち会って見物したことがないのも事実。いくら当方が天邪鬼だとはいえ、見たこともないものを取りあげて推奨するわけにはいかない、ということで、2010年祇園祭の目玉イベントは、鉾起こしということに決めて、出向いてみた。

 事前に調べていた段階では、鉾立(山鉾の組み立て作業のこと)の二日目、その早朝に鉾起こしが行われると聞いていた。交通量が少ない段階で済ませてしまおうというのなら、その意図もわかるのだが、いざ訪れてみると、早朝どころか、8:00にその日の作業開始、さらに始まってもまだ本体を縄で締め上げる作業が完了しておらず、しばらくはそれにかかりきり。結局、町会所から真木が姿を現したのは、昼前になっていた。そして真木を本体に装着したあと、補強の支柱を設置して縄での縛り上げ。そこまで完成すると真木ごと本体を立ち上げるという段取りになり、鉾起こしが完了したのは、すでに13:30ごろになっていた。このあと、本体を櫓の形に整えたり、屋根を付けたり、車輪を付けたり等々で、鉾らしい形になっていく。

 そうした鉾起こしの作業だが、実際に立ち会ってみると、評判どおりの面白さである。真木を担いで二十人近くが町会所からワラワラと出てくるシーンもさることながら、ワイヤーを使って東西で引っ張り合いをしながら本体を倒し、真木を装着したあと、再び引っ張り合いをしながら徐々に立ち上げてゆく過程など、よく工夫しているなあと感心させられる。他の鉾では、クレーンが登場しているところもあるらしいが、長刀鉾の場合は、関係者の言葉を借りれば、神様が乗っているからということで、昔ながらの人力主体の方法でやっているとのこと。ここで天邪鬼的なコメントを挟むのなら、作業中に支柱の一部にでもパキッなんてことがあったら、たいへんだろうなあなんてつぶやいてみるのだが、単純に見せ物として捉えるのなら、そのダイナミックさは存分に楽しませてもらえる。

 また、鉾起こしを実際に見て、初めて知ったわけだが、町会所前の道路には穴があいてあって、足を固定する仕掛けがある。平時は蓋がされていて目立たないので、その穴が何をするものなのかも世間的には知られていないはずだから、隠された工夫の一つといっていいだろう。クイズ番組か何かのネタとしても使えそうな感じだが、どうだろう。

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左から順に、
路面の穴に支柱を差し込み、回転用の丸太を据え、そこへ鉾の本体の足を縛り付ける
約30度ほど傾いた状態。奧の方で足が浮いているのがわかる。
さらに傾いた状態。手前と奧の両側から引き合うので、こんな体勢でも静止できる。
(すべて、写真クリックで拡大)



最後に、11日に行われた鉾起こしまでをムービーに撮って編集してみた。武器が貧弱なので、スミアが入っていたり、画質が悪かったりとさんざんだが、雰囲気ぐらいは伝わると思う。


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by office34 | 2010-07-12 06:11 | 京都本・京都ガイド
2009年 07月 14日
祇園祭で何を見る?
 山鉾も組みあがって、今晩の宵々々山からホコ天が始まる。今年は新型インフルエンザの影響とかで人出が少ないとの噂も聞こえているが、それでも宵々山(15日)や宵山(16日)は、かなりのものにはなるだろう。

 ところで、祇園祭の紹介は京都新聞のサイトをはじめ、いろいろなところでなされてはいるものの、いざ立ち止まって何が面白いのかと考えてみると、即答に困る時もある。無条件に祇園祭だからという問答無用の回答もいいのだが、やはり少しは目的意識もはっきりさせてみたい。

 たとえば、神事としてではなく、イベントとして考えた場合、十七日の山鉾巡行が最大の見せ場になるわけだが、あの巡行は何がすごいのだろうか。山鉾を飾る懸装品が豪華絢爛で「動く美術館と言われている」云々との説明がある。しかし、当方としては三十二基のうち、文化財的な価値ないしは美術品的な価値があるものはどれとどれ、という具合に即答できるわけではない。山鉾の懸装品だから素晴らしいとしか言えないとすれば、本末転倒だろう。

 この前の日曜日、ちょうど四条界隈に出る機会があったので、鉾立の作業中だったいくつを見て回った。最終的に飾り付けが終わると、提灯や他の懸装に隠されてしまうかもしれないもののいくつかも見ることができて、それなりの収穫はあったとは思うが、ふーんとしか言いようのないものもなきにしもあらず。きっと当方の審美眼がお粗末なのだろう。

 以下にいくつかをピックアップしてみる(各写真クリックで拡大)。

a0029238_16254693.jpg長刀鉾の胴掛け
すごいんだろうか? よくわからん・・・唐獅子と思うのだが、お茶目な子犬に見えてしまう。一方に狩野永徳あたりの唐獅子図をイメージして、あの猛々しさと並べてしまうからだろう。



a0029238_16252095.jpga0029238_16253580.jpg
長刀鉾の胴掛け
このタペストリーもよくわからない。ただ至近距離で下から見上げると、天井の星宿や軒裏に描かれた絵も確認できる(写真右)。その他、天井廻りはかなりの小細工が行き届いているというので、鉾に乗せてもらうと、その凄さが実感できるに違いない。ただし遠目では確認できないので、巡行の日に堪能できるアイテムではない。


a0029238_16255850.jpg函谷鉾の前掛け
モンサンミッシェルだとか。これが江戸時代に伝来していたタペストリーというのなら、すごいデザインだなあと感心するところだが、平成になって新調したものらしい。となると、大胆な色調とか斬新な構図とかを取りあげて評価すべきものなのだろう。ちなみに、この作品は皆川泰蔵によるものとのことで、京都新聞のサイトには皆川作品を特集するページがある。一堂に並べられると印象も変わってきて、どことなく伊藤若沖を彷彿させるなとかも思うようになるのだが、単体で呈示されると、ふーんと言って見過ごしてしまう恐れ大。


a0029238_16261898.jpga0029238_16264637.jpga0029238_16263897.jpga0029238_16262885.jpg
菊水鉾の懸装(上段左:前掛け、上段右:見送り、下段:胴掛け)
装着されている状態で、当方の波長に合ったのは菊水鉾の懸装だった。菊水鉾は昭和二十七年に復活した鉾で、いわゆる「昭和の鉾」である。その四面を飾るのは皆川月華らの作品。紹介では「飛鶴図」(前掛け、皆川月華)、「孔雀図」(見送り、皆川月華)となっているが、この時点では装着されていなかった。

 おそらく漫然と眺めているだけでは、綺麗だなあといった程度の感想にとどまるだろうが、懸装品の一つひとつについて調べていくと、相応の深みは味わえる。

オマケの動画
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by office34 | 2009-07-14 16:54 | 京都本・京都ガイド