Ours is essentially a tragic age, so we refuse to take it tragically. The cataclysm has happened, we are among the ruins, we start to build up new little habitats, to have new little hopes. It is rather hard work: there is now no smooth road into the future: but we go round, or scramble over the obstacles. We've got to live, no matter how many skies have fallen. This was more or less Constance Chatterley's position. The war had brought the roof down over her head. And she had realised that one must live and learn.
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2014年 01月 29日
葵公園
出町の駅前から河合橋を渡って出町橋の手前から北上して下鴨本通りに合流する。土地鑑のある人なら、これだけの記述でどういうルートかはわかるはずだが、もう少し説明を付け加えるなら、賀茂川左岸の道路を北上して葵橋東詰で下鴨本通りと合流するという形だろうか。といっても、土地鑑のある人ばかりとは限らないので地図(googleマップ)でも貼っておこう。
a0029238_1515314.jpg

さて、今回のお題はこのコースを通る時、右手に見える広場である。公園のように整備されているのはよく知られていると思うが、かといって滑り台やジャングルジムなど遊具が置かれている児童公園ではない。また地図でみると高野川と賀茂川が合流する部分に見えるが、「デルタ」の通称で親しまれているゾーンでもない。ということで、この広場の位置づけがよく見えないのだが、鴨川の河川敷全体には「鴨川公園」という正式名称があるので、件の広場も鴨川公園の一部とみられているのだろうか。

実は、当方はこの広場については「鴨川公園」のうちに含めて考えていた。「葵公園」という名前も聞くには聞いてはいたが、それも俗称だろうと思っていたのである。下鴨神社に近いこともあって、賀茂のシンボルである二葉葵を借りての俗称だろう、そのぐらいの認識だった。ところが、さにあらず、実際はこの広場を特に「葵公園」とするのが正式名称だったようだ。そのことがわかったのは、上記の道を通るだけで、普段はほとんど入ることのない広場に足を踏み入れたからである。

広場の中程に銅像があることは、近くを通る際に気づいており、それが目玉の松ちゃんこと尾上松之助であることは随分昔にチェックしていた。だが銅像のあるところからさらに奥、つまり北の方向へ進んでみることはしていなかった。「葵公園」なる名称を知ったのは、広場の奥の方へ進んだところに石碑がおかれており、そこに大きく書かれていたからである。碑陰に刻まれていた文章によれば、葵公園として整備されたのは昭和15年のことらしい。もしかすると現在でこそ「奥の方」という印象になる石碑の周辺だが、整備された頃には入り口付近だったのかも知れない。つまり北側からも普通に入れる状態になっていたのかも知れないということである。

現在では広場全体に薄暗い印象があり、まわりを垣根状の植え込みが取り囲んでいる。それだけでも近づきがたい雰囲気になるわけだが、入り口ゲートの構造がそれに輪を掛けている。北と南の両方にゲートがあるものの、見るからに通りづらそうな構造である。「入ってくれるな」という意志が伝わってくるゲートとは、こういうものを言うのだろう。

もっともこういう状態になったのも理由がないわけではない。おぼろげな記憶で恐縮なのだが、二十数年前はこの広場には放置された自転車が山のように唸っていた。現在のような進入しづらい構造になったのは、それらが撤去された後のことである。自転車の大量放置に対処すべく公園の入り口を入りづらい構造にしたのだが、度が過ぎたのか、歩行者も入りづらくなってしまった、といったところだろうか。ともあれ、「葵公園」なるゆかしい名前が正式のものであることがわかっただけでも収穫としておこう。

参考までに碑陰の文章の書き取り。例によって現場での正確なチェックを怠ってしまったので、一部おぼつかない部分がある。後日要確認。
本園ハ昭和十五年二月大澤徳太郎氏ヨリ金貳萬圓ノ寄附ヲ得テ之ヲ工費ニ充テ官府有地參千五百餘坪ヲ劃シ專ラ体教散策ニ資センガ爲曩ニ三井家ニ於テ植栽セル黒松ニ加ヘ公園施設ヲ計畫シ昭和十五年三月起工同年六月竣工ス茲ニ公園ノ一隅ニ碑ヲ建テ記念トス
  昭和十五年七月
    京都府

a0029238_1515788.jpg
自転車は整理されたが、近年は狸が集まっているようだ




-追記-
碑陰によれば昭和15年に「官府有地參千五百餘坪」が整備されたことになっている。1坪≒3.3㎡で計算すれば約11,550㎡。それに相当する広さを想定すると、通称デルタから賀茂川左岸の河川敷および松ちゃん像周辺の広場ぐらいを含むだろうか。現在の家裁以南、つまり段丘の全体である。道路によって分断されているため、現在では別個の空間のような印象になっているのだが、戦前には河川敷もデルタも含めて周辺全部が「葵公園」だったのかも知れない。それが戦後になって鴨川河川敷の上流下流、左右両岸が整備されたため、河川敷部分だけを特に「鴨川公園」と呼ぶようになったとも考えられる。仮にそうだとすれば、「葵公園」の石碑も、デルタのど真ん中とか、かつては別の場所に置かれていた可能性もある。

-追記2-
碑陰の文章訂正
(誤)專ラ体教散策ニ資センガ爲 → (正)專ラ休養散策ニ資センガ爲
写真に収めただけで現地での確認を怠っていると、帰ってきてから文字が読めないという事態になる。「体教」の箇所は意味不明だったが、改めて現地へ行ってみると「休養」であることが判明。
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by office34 | 2014-01-29 02:24 | 街角の風景
2013年 11月 01日
亀石救出大作戦
a0029238_0103261.jpg

九月の台風の折、上流から大量の土砂が流れてきた結果、出町のあたりでは川底がかさ上げされたらしい。それによって通常の水量でも飛び石(通称、亀石)が水没する状態となっていた。水深が浅くなって飛び石が水没という言い方にすると分かりづらいのだが、川底と飛び石との高低差がなくなって、普通の状態でも飛び石が水没している事態となったということである。

ところが昨日、出町柳を通り過ぎる際に眺めてみると川底を深くすべく工事が行われているではないか。飛び石の水没は、台風の直後に分かっていたことで、新聞にも載っていた。ただ、その記事が伝えるところによれば、水量が少なくならないと重機を川の中へ入れることができないので、作業は冬になるのを待って云々とのことであった。それに対して、十月末のこの時点で鴨川に2台のショベルカーが入って作業をしているところをみると、冬でなくても作業可能の状態になったということなのだろう。それはそれでメデタシメデタシなのだが、ふと気になったことが一つある。それは、この先、どういう作業をするのかということである。

昨日の時点では、亀石の近くを掘り下げて川底を深くしていたようだが、掘り出された土砂はすぐ近くに山となって積み上げられていた。亀の周りを深くしているのだなということは分かるのだが、そういった調子で川底を掘り下げたところで果たして効果があるのだろうか。あるいは、まだまだ作業は始まったばかりで、局所的にチョコマカやってるようにしか見えないだけで、実はかなりの長期戦が予定されていたりするのだろうか。実際のところ、以前の状態に戻すのであれば、相当の広範囲にわたって川底を低くせねばならないはずだから、土砂の山を方々に作ってまわって、改めてコンベアーでも設置して山を取り除くぐらいの算段でもあるのだろうか。詳細は分からないのだが、川を全面的に深くする作業だとすれば、二台のショベルカーで対処できるレベルではなさそうだ。

いっそのこと、現在の水位を標準と見なして、飛び石のそれぞれに下駄を履かせるというか、下に適当な大きさの石材を埋め込んで飛び石の丈を高くする方が簡単なように思わないでもないのだが、どうなんだろう。もちろんこれは素人意見であって簡単そうに思うのはとんでもない錯覚なのかも知れない。もしかすると、余分に堆積してしまった川底の土砂はすこしずつ下流へ移動しており、目視ではわからないくらいのスピードでもとの状態に戻りつつあるのかも知れない。そのため現状で水没しているからといって、慌てて下駄を履かせるようなことをすると2~3年後には亀石が水面から高く突出した状態に……なったりするのかも?

ともかく、この先、どういう展開になるか興味深いところである。



ちなみに、こちらが水没した亀石(10/16)
a0029238_0102879.jpg


通常の亀石(2010.10)
a0029238_237841.jpg


暑い盛りはこんな感じで人々が集う(2013.7)
a0029238_13533657.jpg

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by office34 | 2013-11-01 00:15 | 街角の風景
2013年 10月 13日
一般人歌碑@鴨川
a0029238_23502587.jpga0029238_23502130.jpg


鴨川の東側河岸、「花の回廊」に設置された歌碑。「花の回廊」は正確には鴨川河川敷に整備されたプロムナードなのだが、歌碑のあるのは川端通に沿った箇所。河川敷のプロナード部分、花壇となっている部分、そこから一段高くなって川端通との境界になっている植え込み部分まで含めて「花の回廊」の名で呼ぶとすれば、これらも「『花の回廊』に設置された」といえるのだが、どうだろう。まあ、碑陰には「『花の回廊』竣工記念」とあるので、「花の回廊」に設置との意図があるんだろう。それはさておき、碑に刻まれているのは一般公募の中から選ばれた短歌らしい。三条大橋東詰(南側)のたもとにあるのはかねてより知っていたが、五条から七条へ下る間にもあったのは、今回初めて知った。そういえば四条大橋の阿国像の近くにも、草むらの中に何かあったような。
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by office34 | 2013-10-13 23:59 | 街角の風景
2011年 04月 10日
川端通、謎のオブジェ
凝っているわりには、ほとんど目に留めてもらえないブツの例として、鴨川四季の歌碑を取りあげたのだが、設置者や制作者の意図が中空に失せているのではないかとの危惧を抱かされるものとしては、これも有力候補である。
a0029238_1124263.jpg

四条通川端を少し北にあがったところに置かれているオブジェである。近くには出雲の阿国像があり、そちらはそれ相応の注目も集めるようだが、上のオブジェはどうだろう。

a0029238_1124258.jpg阿国像の場合は解説板もあるし、阿国のことを知らない方にはとやかく言っても始まらないと諦めるしかないのだからスタート地点が違うといえばそれまでだが、件のオブジェは解説板を読んでもその意図がよくわからない難解さがある。当方も、存在は認知していたが、その意図が理解できたのはごく最近のことだった。とりあえず、オブジェの近くに設置されている解説板の記述を引く。
結成時より当クラブは、京都の代表的シンボル鴨川の美化・緑化にメンバー一同努めてまいりました。
半木之道(なからぎのみち)紅しだれ桜、川端通り三条~四条間、その他数々の処に紅しだれ桜の植樹を行ってまいりました。
結成40周年記念事業として京都の花、紅しだれ桜をモチーフにモニュメントを制作、記念として寄贈致します。
 平成16年4月
京都鴨川ライオンズクラブ
結成40周年 会長 小野俊一
本体から切り離して、この解説板を読めば、紅しだれをモチーフにしたオブジェであり、地域のライオンズクラブの記念事業で云々という流れは理解できる。しかし、現場で、オブジェと相対した時にはどうだろう。直感的には「紅しだれ桜」という言葉は浮ばない。造形的に乖離しているというべきなのか、それともアートしているというべきなのか、それとも当方のセンスがお粗末すぎるのか、ともかくパッと見た時の第一印象は、「これはは何?」以外のなにものでもない。まったくの謎のオブジェなのである。

正確にいえば、ある言葉が浮かびはする。だが、いくらなんでも公道に設置するオブジェで、かの形状を模することはあり得ないと即座に否定される。その次に思い至るのは、京野菜だろうか。オブジェのタイトル「京ゆたかなもの雅」を見て、なるほどナスビとカボチャだったかとなるわけだ。京の大地の「ゆたかな」恵みが「雅かな」野菜となって云々と勝手に合点するのである。ただ次の瞬間には、いや待てよ、京野菜でナスビといえば賀茂ナスだし、カボチャなら鹿ヶ谷カボチャだのに、このオブジェは形が違いすぎる……と謎は続く。

そうした後の段階で、解説板に目がいって紅しだれ桜という言葉と遭遇するものの、オブジェから紅しだれを導くのは単純な想像力ではない……というわけで、結局、謎は謎のまま残ってしまう。

そんな謎のオブジェだが、さすがにこの季節には、明快な解答を用意してくれているようだ。それが下の写真。こういう組み合わせにすれば、なぁんだ……となってくれる。教えてもらうと答えは単純なのだが、一歩ひいて考えるとどうだろう。春のこういうシチュエーションで、すぐ近くに実物の蕾がないと、自力で解答に至ることは難しいのではなかろうか。
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オブジェに関する詳細データ

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by office34 | 2011-04-10 01:19 | 変なモン
2011年 04月 09日
鴨川四季の歌碑
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京都の歌碑はいろいろあれど、古さゆえに注目されるものもあれば、新しいというだけでスルーモードを脱し得ていないものもある。白川畔のかにかくに碑など前者のパターンで、ことさらに紹介しても、他でもさんざんに取りあげられているので面白みも欠ける(といいつつ、過去にかにかくに碑を紹介したページへリンクを張ってみる)

それに対して、設置されたのが平成の二桁台、やや長めに見積もっても平成になってから設置されたような新しいクチは、話題になる頻度は低いのだが、なにかの折りに立ち止まってみると、意外と深みがあるものもある。川端通冷泉にある鴨川の歌碑などはその一つだろう。

鴨川に沿って川端通をくだって行き、疏水が鴨川に合流するところにその歌碑はある。誰か一個人を讃えてというのではなく、景勝としての鴨川を詠んだ四首を並べたものなので、鴨川のための歌碑である。
桜花ちりかひかすむ春の夜の
       おぼろ月夜のかもの川風   実朝
ちはやぶるかもの川べの藤波は
    かけてわするゝ時のなきかな   兵衛
心すむためしなりけり
 ちはやぶるかものかはらの秋の夕ぐれ  後鳥羽院
霜うづむかものかはらになく千鳥
       氷にやどる月やさむけき   良経
作者は新古今前後の人々である。後鳥羽院は新古今奏上の勅命を発した帝であり、藤原良経は時の摂政で編纂にも影響力をもった一人。新古今集成立の細かいところはおくとしても、おおよその言い方をすると、詔勅の発せられた建仁元年(1201年)を基準にして、そのあたりの人々とすればよさそうだ。

厳密には兵衛は、時代的には半世紀ほどさかのぼることになるし、逆に歌人源実朝の登場は新古今奏上には間に合っていないので、四人全員を新古今時代の歌人たちというわけにはいかないが、だいたいそのあたりといった捉え方は許してもらえると思う。

さて、時代的にはそういう形なのだが、この歌碑が面白いのは、春夏秋冬の四季の歌を選んでいることだろう。実朝の歌は朧月夜を詠んだ春歌であり、藤波の兵衛は夏歌。後鳥羽院の詠歌は秋の夕暮れであり、良経歌は冬である。「鴨川」という地名を軸にして、四季折々の景が並べられているのである。さらに、歌は扇をかたどったプレートに刻みつけられていて、それぞれには千鳥や薄などカットを添えるなどのワンポイントも施されていて、秀逸な一基だと言える。

鴨川には四季折々の楽しみ方があるのは事実である。花見だの夕涼みだのと挙げていけば、きりはない。ただ古典和歌に出てくるものは、現実の景色以上に、言葉に閉じ込められたイメージの方を重んじる傾向があるので、実際の景色とそのまま重なるわけではない。それでも、鴨川は一年を通して愛されていたこと、歌を並べることで、そのことをアピールしようとする設置の意図は十分に伝わってくる。

ただ、いかんせん、設置場所に工夫が足りなかったのかも知れない。もっと、人目につく場所であった方が望ましかった。出町の三角州などなら認知度もあがったかもしれないが、冷泉通との合流点では、ほとんどの人にとっては通過ポイントの一つに過ぎない。通りすがり、わざわざ、そこで足を止めて歌碑に目を落とす、そしてその意図を忖度するといった殊勝なマネは望めない。

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(上段左) 春の実朝歌   (上段右) 夏の兵衛歌
(下段左) 秋の後鳥羽院歌   (下段右) 冬の良経歌

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by office34 | 2011-04-09 02:13 | 歌碑・文学碑など
2010年 11月 30日
しつこく加茂川西入
 紙屋川に並行する道を「紙屋川通」という。高瀬川に沿う道の場合は「木屋町通」と「西木屋町通」で、川の名前と異なる呼び名が付けられている。白川の場合は、川の名前をそのまま使って「白川筋」というのが一般的のようだ。と、こうしたことを言い始めたのは、前回の書き込みで「加茂川西入」と書かれた仁丹版町名板を取りあげたわけだが、かの書き方が鴨川を基準にしたものであるとは、無条件には言えないような気がしてきたからである。というのは通り名としての「加茂川筋」という言い方も無いわけではないらしいのだ。

 ゼンリンの販売している住宅地図は、物理的に細い通りであっても、その名前が普通に使われている場合は通り名として記入している。「三ノ宮町通」や「二ノ宮町通」、あるいは「六軒通」などは、かの界隈を生活圏としている人を除くと、ほとんど通じないのではないかと思うが、それでもそれらの通り名が地図には記されている。それに対して、正面橋の北側わずか三ブロック程度の短い範囲ながら、鴨川西岸に設けられた通りについては、名前は付されていない。その道が実は「加茂川筋」と呼ばれているようなのである。住宅地図が無視しているのであれば一般的に使われている名前ではないのだろうと判断できるが、それでもネット検索をかけてみると、住所で「加茂川筋」という書き方をしているケースが少なからず目に留まる。

 その用例のすべてをチェックしたわけではないが、ざっと見た範囲では、それらは不動産情報がほとんどのような気配である。ということは、建設局の地図や土地台帳のような行政文書の類をベースにしていると思われる不動産業界の用語としては使われてはいるが、世間一般に広まっている名前ではないのかも知れない。そんなやや面倒くさい条件を付けなければならないが、「加茂川筋」なる通り名は存在している。

 そうなると、問題になるのは「六軒通加茂川西入」という記述の「加茂川西入」が通り名「加茂川筋」の「筋」を省略した形なのか、単純に河川名なのかということだ。なお、ここで「加茂川」という用字を問題にする必要はないだろう。現代の地名なら出町より南には「鴨川」という文字を宛て、雲ヶ畑からやってくる河川は「賀茂川」と書くのだが(おっと、そうすると「加茂川」なる河川は存在しないことになる!)、それはあくまでも現代の話である。仁丹版設置の時代すなわち昭和の初めなら、世間一般の認識においてそういう用字が固定されていたかどうかは確認できない。

 実際のところ、たった一枚のかの仁丹版のみを手がかりにするしかないのだから、論証もなにも材料が無さ過ぎる。言い換えれば論証不可ということだ。しかし、願望を前面に押し出すことを許してもらえるとすれば、ここはやはり河川名であって欲しいと思っている。「紙屋川東入」の場合も、「紙屋川通」という通り名があるにはあるのだが、一般的かどうかという観点から、「紙屋川東入」は河川名を基準としたスタイルと判断したわけである。「加茂川西入」も、それと同じような捉え方をしておきたいのだ。

 ここでご託を並べるのなら、いやいや昭和の初めは「加茂川筋」という通り名がもっと当たり前に使われていたのかもしれないぞといった展開にならないこともない。しかし、その手の可能性のみに立脚した論議に乗っかってしまうと、「西木屋町通」という明確に異なった通り名のある「高瀬川西入」についても、実は昭和の初めには「高瀬川筋」という言い方がされていたのかも知れないという方向に流れてしまう。「御旅所下ル」だって、現代では「建勲通」という別の通り名があるが、昔は「御旅所通」だったのかも知れない。そうと言われると、明確に否定することはできないのである。こうした泥沼状態になってしまうと、どこかで諦めて踏ん切りを付けねばならない。「加茂川西入」の場合、踏ん切りの付け方がちょっと早いのかも知れないが、河川名「加茂川」を基準にしたスタイルであると考えておきたい。

a0029238_35413.jpg 余談。「~筋」と言い方に拘ったケースといえるのがこれだろう。戦後派町名板で、さほど珍しいわけではないフジイダイマル版である。東山三条から三条通にそって東進して白川を越えたあたりで見かけた1枚だが、何かを訂正して「白川筋」としているのが一目でわかる。もとの記述が、たとえば「白川通」といったように、明らかな間違いだったのならともかく、消されている文字を探ってみると、どうも「橋」のようなのである。つまり「白川橋東入」とあったところを「白川筋東入」に直しているのである。単純に空間表示という機能面のみをいうのなら「白川橋東入」でも同じはずだが、修正した人には何かのこだわりがあったとしか思えない。
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by office34 | 2010-11-30 04:03 | 町名看板
2010年 10月 16日
意味もなくカメの連貼り
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ごぞんじ、出町のカメ。

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昨日に続いて登場、明日香村のご本家、亀石。

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こういうカメもいます。知恩院は濡髪さんの横で、なんやら石碑を背負ったカメが鎮座。

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同じように碑文を背負ったカメというと、比叡山は東塔、その名も亀堂の前にいるヤツが有名。

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これはオマケで、荒神橋の亀石。ポジションは出町と同じのようだ。
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by office34 | 2010-10-16 00:54 | 街角の風景
2010年 10月 15日
出町の亀石
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 日頃よく目にしているのに、実はあまり見ていないというものはたくさんある。何かの機会に、それがクローズアップされると、へえ、案外いいかも?と思えてくる。何の話かというと、出町の三角州のシンボルでもある亀石の話だ。

 亀石なんて言い方をすると飛鳥の石造物みたいだが、今回取りあげるのはそれではない。賀茂大橋の北側を河川敷に降りたところには鴨川を横切る飛び石が設置されているのだが、それの所々にカメを象ったものが混じっているのは、おそらく有名な話だと思う。実はこのカメは出町界隈だけではなく、荒神橋の近くにもいるのだが、出町の場合は、いわゆる三角州の周辺がピクニックスポットになっているために目に触れやすい。それで、あたかも出町のシンボルであるかのごとく認知されている。

 そんな亀石なんだが、出町まちかど放送局(分類するならコミュニティFM?)が作ったTシャツになっていた。河原町今出川上ルの旧はんこ屋の店舗に、同局が作成したTシャツが展示されていて、数年分のものが一覧できた。最近のデザインには反応するところは少なかったのだが、数年前のデザインにかのカメをあしらったものがあって、思わずいいなぁと思ってしまった次第。



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鴨川の亀石(左)。
すぐ近くに立派な橋があるのだから飛び石を使わなくてもいいのに、ついつい通りたくなってしまう(中)。
ご本家の亀石@明日香村(右)。







 
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by office34 | 2010-10-15 23:42 | 街角の風景
2009年 11月 13日
鴨川の三角州
 通称"出町の三角州"、かのスポットの名称は歴史的には「糺河原」だったということを、以前に紹介したが(参考までに)、「剣先」という言葉も広く用いられているようだ。ただ、こちらは鴨川限定のものではなく、岬の先端など尖っている場所は普通に剣先と言われている。それに辞書でも「三角地の剣先」なる用例が紹介されているところをみると、固有名詞というよりは普通名詞に近い。ちなみに、他のエリアで「剣先」と呼ばれているスポットとしては、関西では大阪は中之島に剣先公園があり、ネット検索をかけると三浦半島の突端に剣崎灯台というのがあるとのことで、付近は釣り場としても有名になっているようだ。

 ただそうした事情があるにしても、鴨川では特定地点の名前=固有名詞としての捉え方が強いらしく、京都市歴史資料館作成の「解説シート」(京都市の歴史をコンパクトにまとめたレジュメ集、WEBでも公開)には、
 鴨(賀茂)川・高野川の合流するY字形の三角形の地には下鴨神社の糺(ただす)の森の緑があり,両川とともに美しい景観をつくっています。この場所を俗に「剣先」(けんさき)というのは,2つの川の間のY字を刀の先端に見たてたからです。
という記述も見られる。

 もちろん、もともとは普通名詞だった点にツッコミを入れるとすれば、「三角州」だってそうである。すると「出町の三角州」と「出町の剣先」では、対等の位置づけとなってくるし、単一のスポットを指定する役割だけでいうのなら、「合流点の突端」と言ったとしても同じになるはずである。「三角州」の場合、定義上の誤りを無視して広く使われている点が面白いのだが、ある程度、公的な性格のある文書などで言葉の正しい使い方を気にするのなら「剣先」の方を用いるのかも知れない。思えば、「土下座」こと高山彦九郎像にしても、似た事情がある。正確には御所を遙拝しているのだが、「土下座」という謂いで知られているのは、正確かどうかを問わずに、俗称が一人歩きしているのだろう。

 ところで、先にふれた時には明石博高の文章を引きあいに出した。そしてそこに記されていた「河合をたゞす訓じ、又只州とも、糺とも書せり」という一節について「他の傍証を示してもらえないうちは鵜呑みにできない」とも書いたが、『山城名跡志』という江戸時代の地誌には、
糺或作只洲。又作河合
と、はっきりと書かれていた。漢字の伝統的な訓み方とは異なるが、意味内容の連想から表記と訓みが結びついたケースといえば、「京都」を「ミヤコ」と訓ませる例などがあるが、それにも似ている。明石がこの『山城名跡志』を念頭に置いていたかどうかまではわからないにしても、江戸時代には河合と書いてタダスと訓むことは行われていたと考えられる。


 
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by office34 | 2009-11-13 20:49 | 京都本・京都ガイド