Ours is essentially a tragic age, so we refuse to take it tragically. The cataclysm has happened, we are among the ruins, we start to build up new little habitats, to have new little hopes. It is rather hard work: there is now no smooth road into the future: but we go round, or scramble over the obstacles. We've got to live, no matter how many skies have fallen. This was more or less Constance Chatterley's position. The war had brought the roof down over her head. And she had realised that one must live and learn.
S M T W T F S
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2013年 02月 12日
鴨東の牧畜場 ~木屋町をあるく(12)
「木屋町をあるく」と題して、三条大橋から木屋町を北上し、木屋町が終わってからもさらに北上を続けてきたが、丸太町大橋を渡り、川端通へ入るといよいよ打ち止め大詰めである。行程の最後は、明治一桁代の鴨東エリアを一瞥したあとで荒神橋ゴールということにしておこう。ではこの丸太町大橋~荒神橋の間の鴨東、現在でいえば京大病院の関連施設や稲盛記念館のあるあたりが明治一桁代にはどうなっていたのかというと、ここにも勧業策に由来する施設があった。「牧畜場」である。

「牧畜場」とは、従来の日本には馴染みの薄かった畜産を京都府の主導で行う施設である。日文研所蔵地図データベースの「京都区分一覧之図、改正、附リ山城八郡丹波三郡」(明治九年刊)によれば、丸太町橋を越えた先の鴨東一帯は「仮牧畜」と記されている。同地図に見られる建造物は聖護院と黒谷、真如堂ぐらいなので、一帯は田野か空閑地だったのだろう。『明治文化と明石博高翁』には、旧練兵場だった場所に明治五年二月、牧畜場が開かれたとの旨が記されているが、旧練兵場の詳細は不明で、長州屋敷の跡地と同様、戊辰戦争が行われている間のみ一時的にそういう使い方をされていただけのように思われる。ともあれ、明治五年の二月に府の政策として管理棟を備えた牧場がこの地域に作られたのである。

江戸時代までの日本では、牛は運搬や田畑の耕作で使われるのが普通であり、肉牛や乳牛として、あるいは皮革製品用に飼育されることはなかった。勧業の一環として牧畜場を設けるのは、そうした習慣を転換させ、付帯する事業を広めるためであった。「山本覚馬建白」「衣食」の編目では強健なる肉体と精神をつくるためにも肉食と暖衣の必要が説かれているが、それがすべてではない。青山霞村の『山本覚馬』には、畜産を推進する根拠となる興味深い発言が紹介されている。
山本覚馬先生は常に側近者に対し、牧畜と製革ぐらい便利で経済なものはない。なぜなれば同じ一把の藁でも直接これを使えば一足の草鞋を作るに足らないが牛を養えばその肉は食用となり、その乳は滋養となり、その骨は骨粉または細工材となり、角は装飾となり、毛は壁のすさとなり、またわずかにその一部をなめして靴が作れる。靴なら草鞋とちがって、足を汚さず数か月も使用できるし、そのうえ品格もよい。しかもこれは食料とし肥料とした残りの一部にすぎない。総じて文明とは間接に用いることをいうのである。しかるに製革は昔からわが国ではある種の人間の仕事として卑しんでいたが、そんなものではない。英国女帝の例もある。動物でも下等のものは手足がなく、また口もない。鳥に至っては嘴があり、猿ともなると手を使って食事をする。人間になると直接手を使わず箸またはフォークを用いる。総じて間接に運ぶが文明と思えと諭された。
資本を直接消費すればそれだけの価値に留まるが、商業の元手に用いれば何倍にもふくらませることができるとする説(「建国術」)にも似た論法で、いかにも覚馬らしいところである。牧畜場の開設は、こうした覚馬の思想を反映するものと思われる。ただし、実務を担当するのは、ここでも明石博高だったようだ。

稲盛記念館の敷地の北西角に、牧畜場に関連する2基の石碑が置かれている。一つは牧畜場の所在を伝える「牧畜場址」の碑で、もう一つは「牧畜場記念碑」と題された石板である。ともに昭和の十年代に置かれたものだが、石板の方には明治十三年に記された碑文が再録されている。十三年の撰文を刻んだ碑が実際には置かれることなく終わったのか、そのあたりの事情はわからないが、明治十三年の時点で牧畜場を語る史料になるので非常に興味深い。加えてその撰文が明石博高その人が行っていることも、碑文の重要性を高めているといっていいだろう。例によっていしぶみデータベースにはに紹介されているのだが、データベースにはあいにく原文が書き取られているだけである。語句のレベルでは、厳密には解釈に苦しむ部分もあるが、大意はとれそうなので要約したものを記しておこう。
牧畜場は農作業に必須であり、健康増進にも大切である。牧畜の中でもとりわけ牛と羊が重要なのだが、国産種は外国種に比べると体格も品質も劣っている。そこで優れた品種を輸入し、国産種の品種を改良すべく明治五年二月にこの施設を開き、海外の農学者を雇って講義と実習を行わせた。その結果、明治八年と九年の京都博覧会にこの牧畜場で飼育した牛を出品して表彰を受けることができた。その後、丹波に分場を設けて農業と畜産の学校を開いたり、十年には陛下に牧畜の業務をごらん頂く栄に浴するなど、事業は発展した。そして貸与規則を定め、管内の事業者への貸し出しも始めるなど、農業や畜産業の改良に大きく寄与している。
明治十三年、京都府知事槇村正直の命によって勧業課一等属明石博高が撰述する。
「明治十三年」となってはいるが、文章が作られたのは、もう少し早いように思われる。というのは、実は牧畜場は明治十二年の五月に廃止が決まり、飼育されていた家畜はすべて民間へと払い下げられているのである。明石が作成した撰文は、事業が軌道に乗ってますます拡張していくかのような雰囲気も感じられるのだが、廃止が決まるより先に用意されていたものではないだろうか。実際のところはわからないのだが、廃止の決定がなされたことにより、この碑文は実際に石に刻まれることなく、原稿の状態でどこかの引き出しに仕舞われていたのではないだろうか。いずれにせよ、他の勧業策と同じように、牧畜場もまた短命に終わっているのである。

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牧畜場関連の碑2基




(プロローグ)木屋町界隈をあるく / (1)高山彦九郎像 / (2)三条大橋西詰の高札場 / (番外)赤松小三郎と山本覚馬 / (3)佐久間象山遭難碑、大沢商会 / (4)木屋町の寓居碑 / (5)御池大橋西詰の「療病院址」碑 / (6)河原町御池・幕末から明治へ / (7)河原町御池その後 / (8)木屋町二条、島津の作業場 / (9)明石博高と舎密局 / (10)「木戸邸」の碑 / (11)丸太町の女紅場 / (12)鴨東の牧畜場 / (13)荒神橋の京都織物会社本館 / (エピローグ)第一期京都策の時代 /
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by office34 | 2013-02-12 23:45 | 京都本・京都ガイド
2011年 09月 07日
変体仮名@鴨東
新京極で目に留まった変体仮名の屋号を、つらつらと紹介したことがあった(参考までに)。ひとたび、ああいうマネをしようものなら、では他の場所はいかにと気になってくるのが世の常というもので、その後、目に留まったものをいくつか並べてみる。
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花見小路の「北郎」なる小料理屋。変体仮名ではなくて、「北」という漢字を崩して書いただけの話だが、パッと見たところ、ハテ?との反応になったのでチェック1点といったところか。藤山寛美が命名して、直美がのれんの字を書いたとか。テレビでも紹介されたのだろうか、MBSの情報番組に出てくるキャラクラーの絵が店の前に飾られていた。祇園界隈自体、ご縁が少ないこともあって、この店ともご縁はない。
a0029238_16495492.jpg
なんとなく違う気がするなと思いつつ、長らく「たわら」と読んでいた店。四条大和大路の南東角にある飴屋なのだが、正解は「藤わら」である。「多」を崩した変体仮名とばかり思っていたものが、「藤」という字を崩して、漢字のまま使っているケースだった。
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で、最後はお馴染みの篠田屋(三条大橋東詰)である。どこが変体仮名なんだとお叱りがでそうな暖簾だが、実はこの暖簾は新調されたもの。数年前まで店先にかかっていたのが、こちら。
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これなら、どうだとばかりの変体仮名で、大きな看板がないと「しのだ」と読むことも難しいパターンである。別に読めなくても、行き付けの人々にはなんの不都合もなかったはずだが、新しい客層や観光客にも読んでもらえるようにと、変体仮名でない書き方に改めたのだろう。実は、ここ数年、純粋な意味での定食屋にスポットが当たるようになってから、篠田屋はたびたびガイドブックで紹介されるようになった1軒なのである。ということで、最後の〆に定番メニュー「皿盛り」の写真をペタっと。
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by office34 | 2011-09-07 00:00 | 街角の風景
2011年 01月 25日
京都の範囲(岡崎、聖護院、田中)
 先日の仁丹版町名板の表記スタイルで、町名が前に来て、後ろに小書きで通り名のグリッド表記がくるものについて少し触れた(参考までに)。話を持ちだした最初の時点では深く考えてはいなかったのだが、少し考えているうちに古来からの京都中心部に対しての周辺地域に、それらのスタイルによる町名板が見られるようだとの印象を持つようになった。そこから課題として、当該地域が京都市に編入された時期の確認という作業を設定しておいた。

 具体的には、左京区の岡崎、聖護院、田中であり、下京区の中堂寺のあたりである。またずんずんさんのブログ「京都ずんずん」で「下京区/本町十六丁目/本町通東福寺北門下ル」と記された1枚が紹介されているので(コチラ)、伏見区の東福寺門前界隈も視野に入れておく必要があるのだが、今回はとりあえず左京区に絞って書いてみる。

 上に挙げた地域は、もともとは周辺の郡村部であることは知っていた。すなわち岡崎村であり、聖護院村であり、田中村である。それらの地域が市域に編入された時期が問題になるわけだが、『史料 京都市の歴史 8 左京区』(昭和60年、平凡社、京都市編)には、聖護院と岡崎については、
さらに進んで明治二十一年になると、吉田村・聖護院村・岡崎村・浄土寺村・鹿ヶ谷村・南禅寺村・粟田口村の七ヵ村は市中に編入となり、上京区第三十四組となった。
とあり、田中に関しては
大正七年四月になると白川村・田中村・下鴨の三ヵ村が京都市に合併され、上京区を形成した。
とある。岡崎、聖護院、田中の間では早い遅いの差はあるが、いわゆる「大京都の時代」、すなわち昭和の初期に行われた大合併に先立って、これらの地域は軒並み京都市に編入されていたようだ。

 町名+グリッド表記のもので当方が実見した町名板は、聖護院山王町2枚、岡崎徳成町、田中関田町2枚の計5枚だが、エリア名としての浄土寺、南禅寺、下鴨などが出てくると、町名のみのものも頭の片隅に置かねばならない。建物が残っているのに町名板だけが消えたという話で取りあげた「下鴨松之木町」、哲学の道で見かけたというだけでネタにした「浄土寺南田町」、あるいは南禅寺の境内で見かけたというだけでのピックアップとなった「南禅寺福地町」などのことで、これらが先の5枚と比較の対象となってくる。

 とりあげず町名のみのものと、町名+通り名グリッド表記になっているものを並べてみると以下の通り(当方が実見したものに限定)

-町名のみ-
下鴨松之木町
浄土寺南田町
南禅寺福地町

-町名+通り名グリッド表記-
田中関田町東今出川通鞠小路東入(鞠小路通東今出川下ル)
聖護院山王町竹屋町通東大路西入(東大路通竹屋町上ル)
岡崎徳成町東大路通冷泉下ル

 こうやって並べてみると、後者のグループについては、東今出川通や東大路通、あるいは冷泉通など、比較的新顔の通りが関わっているとは言えないだろうか。東大路通の詳しい沿革や冷泉通の素性については未調査だが、明治期から大正の頃に整備・拡幅された道ではないかと思っている。これらに比べて、前者のものは、軒並み東や北へ外れているので、グリッド表記に馴染む主要な通りがまだ存在していなかったといえるかも知れない。昭和の初期の時点において、もとからの市中域は[通り名のグリッド表記+町名]というスタイルになるが、後から市域に編入されたところは[町名のみ]で記され、例外としてその頃すでに通りの整備が進んでいたところに関しては、[町名+通り名によるグリッド表記]になる、という推測も可能になるのではなかろうか。

 データが少ないので結論づけるのはかなり難しいのは確かである。また水谷リストをつらつら眺めていると、本当に上記のような見方が正しいといえるのか不安になるものも少なからず目に留まる(聖護院中町や東町は町名のみだが、ずっと東に離れた南禅寺下河原町のものに鹿ヶ谷通冷泉下ルとのグリッド表記が付いている例など)。そうした意味では、暴論だとの誹りを受けてしかるべきだが、仁丹版町名板の表記スタイルを通して、当時の人々のイメージしたものがかいま見える気もする。編入地域であっても田中や岡崎は京都としての認知を受けるようになっていたが、下鴨や浄土寺のあたりは行政上の区切りでは京都というだけで、意識の上では京都に非ずといった捉え方である。
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by office34 | 2011-01-25 19:31 | 町名看板
2010年 09月 25日
意外なところで「東山線」
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 今となっては、ほとんど耳にしないが、かつての京都ではごく当たり前に使われていた一群の言葉がある。市電関連の語彙だ。たとえば「車庫」とか「電停」などは普通に使われていた当時は注釈の必要もなかったのに、環境が変わって言葉が死語となると、要説明なものになっている。「東山線」というのもそうした歴史語彙に含まれるのだが、意外な場所で東山線と出会ってしまった。ことの発端は寂光寺というお寺にある。

 東大路通仁王門を西へ入ったところに、その寂光寺はある。観光寺院ではないのでガイドブックで取りあげられることは、ほとんどない。響きが似ていても大原の寂光院とはまるでの別物である。それでも囲碁の本因坊ゆかりの寺院として知られているので、ウィキペディアのようなところなら単独のページが作成されている。そうは言っても、碁石を見せられたところで当方の場合は五目並べが関の山、本因坊という言葉に対する敬虔度もたかだか知れたものにならざるを得ない。あの辺に囲碁関連で何とかというお寺があった気がするなという程度なら頭の隅っこに入っているが、そんな情報は実際は深いところへ沈みっぱなしになっていた。

 ところがである。たまたま『天地明察』を読み終わったばっかりだったので、渋川春海だの関孝和だの、あるいは本因坊道策だのの名前が頭の比較的浅いところに引っかかってきていた。そんなタイミングで寂光寺の前を通りかかったものだから、つらつらと境内を覗いてみようという気になってしまったわけだ。ということで、以下境内探検の報告となるのだが、得意分野からは思いっきり離れていることもあり、まずは門前に掲げられた駒札の内容を書き写してみる。
     寂光寺
妙泉山と号する顕本法華宗の寺院である。
 寺伝によれば、、天正六年(一五七八)に日淵上人により創建され、はじめ久遠院と号し、室町出水(上京区)にあったが、後に寺町二条(中京区)、さらに宝永五年(一七〇八)にこの地に移った。
 当寺二世の日海は、寺内塔頭の本因坊に住み、本因坊算砂と号した。算砂は、碁技を仙也に学び、当時敵手なく、織田信長から「名人」の名を贈られた。次いで、豊臣秀吉、徳川家康に碁を教え、以後、本因坊の名称は、碁界家元の地位を持ち、技量卓抜な者が襲名することとなった。二世算悦、三世道悦楽を経て四世道策の時、本因坊は当時から江戸に移った。
 寺内には、本因坊算砂、算悦、道悦の墓があり、寺宝として、算砂の画像や近衛関白家より拝領の唐桑の碁盤等を蔵している。
京都市
 巡り合わせの妙とはいえ、興味のアンテナが向いたのも何かの縁、門外漢ながら本因坊宗家のお墓参りである。境内奧の墓地に入ると、入口脇に他とは仕切られた塋域があり、中央には大きな五輪塔、そして前には本因坊歴代墓云々と記した石柱が建てられている。五輪塔が算砂の墓で、左右に二世以下歴代の本因坊の墓標が並んでいるようだ。向かって左側に算悦と道悦、右手には「本因坊道智」と記された墓標がある(これは何代目か知らない)。また道智墓標の前には、見るからに新しい墓標で「本因坊伯元」「本因坊道策」「本因坊察元」と刻まれたものがある。道策の名前も認められるが、墓がある旨が駒札に記されているのは算砂以下の三代までなので、道策の名前を含むこれはおそらく後世に建てられたものだろう。

 さて、そうした本因坊の墓なのだが、殺生関白秀次のようなビンビン響いていくる謂われがあるわけでもなし、あるいは門外漢ゆえの悲しさか、取り立てての感慨もなく、お墓がありました、ふーんというしかない。そうして墓地を出て他に何か面白そうなものがないだろうかと境内を見回してみるも……。あえて言うとすれば本堂正面の鐘楼くらいだろうか。もちろん知恩院のような巨大さもなければ、妙心寺の「黄鐘調の鐘」のような由緒もなさそうだ。鐘の表面には細かな文字がびっしり刻まれてはいるものの、遠目ではろくに読めない。ということで、やっぱり何にもないかなと諦めて帰ろうとしたところ、ふとした弾みで釣鐘の内側に視線が行ってしまった。そこに書かれていた文字は「京都市左京区 仁王門通東山線 西入 寂光寺」。

a0029238_1322937.jpg 「東山線」というのは、東大路通を走っていた市電の路線名である。市電が過去のものとなった現在では歴史語彙になっているが、市電が健在だった頃は、路線の名称だけではなく、路線が通っている道路の名前としても使われていたという。つまり東大路通の異名として東山線とか、東山線通とかの言葉が存在していた時期があったわけだ。仁丹版町名板に興味を持っている人の間ではたぶん有名物件のうちに入ると思うが、東山三条上ルの山梨製餡の建物に貼られている「孫橋通東山[以下破損]」となっている一枚からも、往年の姿が偲ばれる(破損部分がおそらく東山線と続いていたに違いない)。あるいは『京都・もう一つの町名史』では巻頭の一章に、この東山線ネタが来ているので、そちらから気に留めている人もいることだろう。

 そうした「東山線」だが、さすがに市電が姿を消して幾星霜、仁丹版に残る痕跡も謎掛けのように中途で切られていたことを思うと、「東山線」とお目に掛かることはあるまいと諦めていた。それがこともあろうに、釣鐘の内側で出会うとは、これを奇遇と呼ばずしてどう呼ぼうかといったところである。そもそも釣鐘の内側にこうした住所を記すのはどういう意味合いがあるのだろうか。あるいは鋳造所で出荷先を間違えないようにといった単純なものだったのかも知れない。鐘には寺ごとに異なった銘が入れられるのが普通だから、サイズや形状が同じでも、他のお寺に納めることになっている鐘と入れ替わったりすると一大事である。それに書かれた文字自体も走り書きっぽくっ稚拙で、ちょっとした控えのつもりで書いたことを窺わせる。それが消されることなく残っただけなのかどうか、真相追求は社務所で聞けば判明したのかも知れないが、意外なところで意外な言葉と出会ってしまったというお話である。

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写真左:寂光寺の山門。見るからに平凡だ。
写真右:本因坊歴代の墓。中央が初代本因坊の算砂墓



 
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by office34 | 2010-09-25 11:35
2010年 05月 20日
失踪(板)報告、あるいは二条通考
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 少し前に「二條通川端東入」の仁丹版町名板を紹介したことがあった(以前の記事)。本日、その場所を通りがかったのだが、おや消えているじゃないか(写真クリックで拡大)。

 ずんずんさんのブログには「河原町通夷川上ル」の仁丹版が消えているとの報告が上がっているが(京都ずんずんさんの記事)、そちらは建物が消えたのだからやむを得ない。しかし「二條通川端東入」の方は、建物は健在で町名板だけが消えている。建物が残っているのに、仁丹版だけが消えることについての当方の見解はすでに書いているので繰り返すつもりはないが(以前の記事)、なんともやりきれないパターンだ。

 トキの卵を掠めるカラスに対して文句を並べたところで何にもならないのと同じように、失われた仁丹版として諦めるより他にないのだが、今回消えた「二條通川端東入」については、課題が一つ残っていた。厳密には二条通から一筋北に上がったところにある仁丹版なので、設置された頃の二条通がどういうものだったのかということである。前回、取りあげた段階では、昭和二年刊の大京都市街地図を見ただけだったので、その時点で仁丹版の表記と実際の通り名がすでにズレているというところで投げ出していた。実際のところ、そこから大きな進展があるわけではない。しかし、日文研で公開されている地図データベースに含まれる複数の地図をいろいろ見ていると、ある考えが浮かんできた。現在の二条通から一筋北側の通りに「二條通」と記された仁丹版が貼られているということは、当時はそこが二条通だったということである。裏返せば、二条通が一筋下がるためには、そうなる必然的な理由があったと考えられる。具体的には、電車道の敷設である。

 京都の市街地を走る鉄道といえば、市電がまっさきに思い浮かぶ。しかし、問題の二条橋周辺は、明治末年の地図を見ているとどうやら市電以前のもののようだ。京都市の運営する会社が営業を始めたのは明治四十五年(1912)、それに先立つ形では京電、すなわち京都電気鉄道が営業を始めており、二条橋周辺では、寺町二条-(二条橋経由)-木屋町二条に鉄道が敷かれていた。この路線の開通によって、寺町二条-二条橋-木屋町二条の間がスムーズな一筆書きで描かれるようになり、あみだくじのようにガクンガクンと折れ曲がった二条通は人々の意識から遠退いていったに違いない。
*明治四十二年時点での、二条橋周辺における京電の路線は、寺町丸太町-寺町二条-(二条橋経由)-木屋町二条、となっている。(京都市実地測量地図)

 この二条橋を通過する路線の敷設年次は調べていないのだが、京電の開業は明治二十八年(1895)で、明治四十二年(1909)の地図には電鉄線が記入されている。日清戦争(明治二十七年~二十八年[1894-95])後の好景気をうけて、それいけドンドン的に路線が開かれていった頃の産物だと思うが、ともかく明治四十二年(1909)以前のいずれかの時点で二条橋から北寄りに斜行する新しい二条通が出現していた。

 そうした背景を踏まえての「二條通川端東入」の仁丹版である。この仁丹版町名板が設置されていた場所は斜行部分が従来からの二条通に合流するポイントよりわずかに西、つまり古い二条通である。そうすると、設置は明治四十二年(1909)以前?。いや、いくらなんでもそれではおかしすぎる。というのは、森下博薬房(現在の森下仁丹)が町名板の設置を始めたのが明治四十三年(1910)からだからである。さらにいえば、琺瑯製の町名板以前には木製の時代があったわけだから、明治四十年代を想定するのは厳しすぎる。そうなると、いろいろと可能性が広がってくる。新しく電車道ができたものの、それが「二条通」の名前で認識されるまではタイムラグがあったということだろうか。それとも電車の通る大きな道が出現したものの、「二条通」は旧来通りの道についての呼称だったのだろうか。あるいはある期間「二条通」は二本存在しており、仁丹の町名板はたまたま古い方を採用したということなのだろうか。このあたりのツメは手許にある資料だけではどうにもならない。ちなみに斜行部分が二条通に合流するポイントには停車場が設けられており、それは「二條川東」となっている。

 こうしたことはあるいは歴史のスキマなのかも知れない。時代を突き動かしたダイナミズムとは無縁のコト、どうでもいいコトといえば、確かにそうである。しかし、こうした些少な可能性をあれこれいじくりまわすのも、面白いといえば面白い。もっとも、今回、肝心要の仁丹版町名板が消え失せてしまったわけだから、あれこれ思いを巡らせる契機自体が失われた。まったくもって残念なことだ。

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by office34 | 2010-05-20 21:00 | 町名看板
2009年 11月 05日
夷川通と冷泉通
 かつて鴨川に架かっていたらしい「夷川橋」だが、その位置は碁盤目内の夷川通の延長線上にあたる(厳密にいうと、夷川通は寺町通を越えるところで少し南にずれているので、寺町通と河原町通の間の夷川通の延長線上)。この夷川橋そのものについては、なにも調べは進んでいないのだが、夷川通の方が気になってしまった。丸竹夷の歌にも入っているのだから、通り自体は有名である。トピック的なところでは、家具屋がたくさん集まっている場所としての知名度だろうか。確かに、寺町通と高倉通の間には夷川通に面して何軒もの家具屋が並んでいる。平凡な西洋家具店もあれば、和式調度の店もあり、さらには西洋アンティークを主に扱う店も加わっている。このイメージがあるので、夷川通というと、丸太町通の二筋南にあって、寺町と烏丸の間の家具屋が並ぶエリアと考えてしまいがちだが、「夷川通」という名前が通用する範囲は、もっと広範に及んでいる。少なくとも、碁盤目がはっきりしている二条城以東では、現行地名でそう呼ばれている。

 二条城を越えてさらに西に進むと、街区が入り組んで通りそのものを直線状に確認するのが難しくなるので、二条城の面する堀川通を西端とみていいだろう。これに対して東端はいえば、常識的に考えると鴨川でストップとなる。今なお夷川橋が残っていて、夷川通に沿いつつ、寺町通を越え、河原町通を越え、鴨川を越え、さらにその東へと進むことができるのなら、鴨東にも「夷川通」の通り名が使われているとは思うが、現状はそうなっていない。ウィキペの説明が「東は鴨川西岸から西は堀川通まで」としているのも、いわゆる常識的な判断によるものだろう。

a0029238_4533560.jpg ところが、鴨東における夷川通は、実は仁丹版の上には残っている。川端二条を二筋ほど上がったところを東に入って突き当たりぐらいまで進むと、古い家屋の二階部分に「夷川通川端東エ四筋目上ル難波町」と書かれた仁丹版が確認できる(写真クリックで拡大)。「川端二条を二筋ほど上がった」と説明したこの道が、他ならぬ夷川通だったわけである。夷川橋の描かれている地図に照らしてみても、二条から二筋上がったところの通りが橋の延長線上にきている。現在では、鴨東では夷川通という通り名が使われることは、あまりないに違いないが、歴史的には鴨東にも夷川通が存在していたのである。なお、「夷川通川端東エ四筋目上ル難波町」の仁丹版は、「東エ四筋目上ル」といったちょっと捻った(苦肉の策めいた?)書き方がされていたり、当初は「上京区」となっていただろうところが「左京区」と書き直されていたりと、けっこう興味深い一枚なのだが、鴨東に残る夷川通の痕跡という点でも大きく取りあげておきたい。

 ところで、そもそもの「夷川」とは何だっただろう。幸いなことに、『新撰京都名所図会』には項目として「夷川」が取りあげられており、そこに詳しく説明されている。
夷川は一に恵比須川ともしるす。夷川とは、むかし、堀川の支流が小川通に沿うて南流し、夷川通を東行して西洞院通を南下するまでの、わずか一〇〇米足らずのあいだをいうたもので、いまは暗渠になっている。もと附近の東夷川町(夷川通小川西入北側)に夷神を祀った祠があったから、夷川とよんだものであるが、同社は中世、東山若王子へ移された。「重篇応仁記」や「信長公記」等によれば、永禄八年(一五六五)五月、三好・松永の徒党は将軍義輝を二条勘解由小路御所に急襲し、これを殺したが、また義輝の弟僧周暠は、このとき北山鹿苑寺にあったが、これをあざむき誘い出し、恵比須川に於いて討ち取ったことがみえる。
 通り名は、小川通と西洞院通の間のみを走っていた小さな川に由来し、川の名前もその地にあった祠に依っているとのことである。だとすれば、夷川通の発祥は烏丸以西であり、現在のメインイメージとなっている家具屋街は後々の時代に主役となったのだろう。

*通り名の位置関係が分からない方のために(太字は既出の通り名)*
河原町通と烏丸通の間の南北の通りは、東から順に
河原町通、新椹木町通、新烏丸通、寺町通、御幸町通、麩屋町通、富小路通、柳馬場通、堺町通、高倉通、間之町通、東洞院通、車屋町通、烏丸通
烏丸通と堀川通の間の南北の通りは、東から順に
烏丸通、両替町通、室町通、衣棚通、新町通、釜座通、西洞院通小川通、油小路通、東堀川通、堀川通


a0029238_4543677.jpg さて、これで夷川通のお話はお終いとなるかといえば、そうはいかない。川端通を二条通から北上していくと、とある道路標識が目に入る。通り名を記した、ごくありふれたものなのだが、こだわり始めると、けっこうな深みにはめてくれる一枚である。そこに書かれているのは「冷泉通り」という文字である(写真クリックで拡大)。

 とりあえずはこの冷泉通の概要から。疏水が鴨川に放流するところを起点として、疏水の南側沿いに東行し、平安神宮の応天門前から若王子にいたるのが冷泉通である。この道が、どのような混乱をもたらすのかといえば、この場所でいうところの冷泉通と夷川通の関係についてである。一説によれば、冷泉通=夷川通ともされるのだが、そんな単純なものではない。

 通り名の由緒で比較すると、冷泉通の場合は夷川通に比べてずっと古い。平安京が出来てほどなく造られた「冷然院」がその発祥であり、名前だけなら平安時代初期にまで遡ることができる、名前だけならと断りを入れたのは、当面の課題はあくまでも川端二条を上がった鴨東のこの場所にあるからである。平安京のエリア外にあたるこの場所に古くから冷泉の名前が宛てられていたのではなく、京内の通り名として「冷泉小路」が存在していたのである。そうして、この冷泉小路は、碁盤目内の夷川通とほぼ重なると考えられる。度重なる火災や応仁の乱のような戦災によって、何度も焼き尽くされているだけに、平安京の大路小路と中世近世以降の通りとを物理的に重ね合わせることはできないにせよ、相対的な位置関係という限定をつけるのなら、冷泉小路がいつしか夷川通に名を変え、その適用範囲が東西に渡って延長されたとしてもいいと思う。これだけのことであれば、冷泉通=夷川通と考えて、おおよそ問題はなさそうなのだが、話がこじれるのは、鴨川を渡ってからである。

 すでに見たように、鴨東のこの近くには、この冷泉通とは別に夷川通が存在していた。仁丹版の設置された時代に夷川通と呼ばれていた通りが、川端二条を二筋ほど上がった場所にあること、その通りが鴨川を越えるところに架かっていた橋が夷川橋であることを思うと、そこからさらに北上した場所にある冷泉通をもって、これが夷川通だというのは無理である。鴨川の西に限定するのなら、冷泉小路=夷川通でも構わないのだが、視点を鴨東に移した途端に、この両者は一致しなくなる。仁丹版や夷川橋を根拠にして、二条通の二筋北側にある夷川通の方に軍配を上げたいのだが、それでは現在も道路標識にデカデカと記されている「冷泉通り」とは何者なのかという問題が残ってくる。

 かなり推測の度合いも強くなってくるのだが、現在の冷泉通が疏水に沿っており、かつ平安神宮の南側に面しているということが、ポイントになってくるのではないだろうか。というのは、疏水の開鑿や平安神宮の造営とセットにすると、この通りは明治時代に新しく造られた道であると考えられるからである。その新しく造られた道を命名するにあたって、あるいは夷川通の古名である「冷泉通」が復活させられたのではないだろうか。

 想像の範囲で言っていることなので、詳細な事情は当然ながら分からない。それでも、想像に想像を積み重ねて言えば、冷泉通という古い名前が引っ張り出されてきた事情はこんな感じだったろうか。(その1)すでに南側に夷川通と呼ばれている道があるので、碁盤目内の夷川通の延長線上に当たっているとはいえ、新道にその名前を使うと混乱を招くという、実利的な判断(その2)平安神宮を重々しく感じさせるため、その正面を通る道に平安時代以来の小路名を持ってこようという虚栄的な判断、などなどである。これらは想像での仮説に過ぎないのだが、冷泉小路=夷川通という関係を持ちだして、鴨東のこの場所にある冷泉通は夷川通の古名が残っている場所と説明するのは間違いだということは、それなりの確からしさを伴って言えそうだ。
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by office34 | 2009-11-05 05:21 | 町名看板
2008年 11月 30日
「東今出川通」に関する中間報告
東今出川通に関連するこれまでの書き込み
東今出川通の仁丹さん
志賀街道

 とりあえず話を整理しておくと、以下の通り。現在の「出町柳駅前通」に貼られている仁丹の町名板、そこに記されている「東今出川」という地名が発端である。現在では今出川通の鴨東エリアが「東今出川通」と呼び慣わされているが、仁丹版の記述を重んじるとすれば、仁丹版が貼られた当時は、「東今出川」という言い方は存在したものの、現在とは違う場所を指していたのではないか、そういう予想に基づいて、裏付けとなる情報を探していた。鴨東における古い時代のメインストリートという見方をすれば、今出川よりも志賀街道の存在を思うのが普通だから、今出川通は案外新しいのではないか、だとすれば、出町柳駅前通の仁丹版がいう「東今出川通」も、当時の言い方の名残と見るのが正しいのではないか、という予想である。

 左京区にあるこの仁丹版が「上京区」となっていることから、これが設置されたのは昭和4年の左京区成立以前のことである。これは間違いない。したがって問題にするのは、昭和4年以前のこととして、「東今出川」とはどこを指していたのかということである。大きな手がかりとなるのは、現在の今出川通の来歴だが、まずは簡便なところから『京都市の地名』(日本歴史地名大系27、平凡社、昭和54)を引用してみる。
今出川通
 五辻通の南にあり、近世には東は鴨川河原より西は新町通西入までであったが、現在は加茂大橋で鴨川以東の東今出川通とつなぎ、西は旧須磨町通とつなぎ、七本松通から南に斜行して西大路まで貫通する。
 中世の北小路にほぼ該当すると思われる。応仁の乱以前の状態を記すとされる中昔京師地図によれば、北小路の東洞院大路以東、京極大路までは北側に今出川が流れており、通り名はそれに由来する。「山州名跡志」は北小路を説明して「今出河通 在一条北二町、此街従堀河東称今出河」[一条の北二町にあり、この街は堀河より東、今出河と称す]とあるから、北小路の堀川以東は早くから北小路とも今出川通ともよんでいたのかもしれない。「京雀」には「むかしは今の小路と名づけしにや」とあるが、今小路は元誓願寺通と思われるから間違いであろう。
 なお近世には本通の東は「川原大原口」で、そこから西へは公家屋敷町であったという(京羽二重)。
 宝暦二年(1762)刊「京町鑑」によれば、本通に面する町は、大原口町、革堂西町、常盤井殿北町、今出川町、堀出町、今辻子、弁財天町、北兼康町、南兼康町。

 この説明の中でもいくつか詳細不明の地名が登場するが、まずは「近世には東は鴨川河原より西は新町通西入までであった」とある部分が重要だろう。今出川通の原型はあくまでも鴨川から西側にあって、鴨東エリアには現在の今出川通に該当する通りは存在していなかった。この点のみについていえば、昭和4年前後の地図を参照することができるので、そこで確認できることを書き出すと、次のような具合になる。
「大典記念京都市街地図」(大正4)A
東一条以北で鴨東を東西に貫通するのは現在の出町柳駅前通のみ。この道が「京都帝国大学」の北辺を通る
「大京都市街地図」(昭和2)B
御所の北側を通る東西の大通りは河原町今出川で「伏見宮邸」に突き当たる。そこから少し北上したところで鴨川を越える。この箇所の橋は「葵橋」「河合橋」と記されている。河合橋を越えたところが、出町柳の駅前であり、そこから細い路地が「帝国大学」の前まで伸びている。
「学区界町名入リ京都市街図」(昭和15)C
今出川通は「賀茂大橋」で鴨川を渡り、そのまま東進する。「帝国大学」の北辺を通るのも今出川通。
*AとCは『慶長昭和京都地図集成』(大塚隆編、平成6、柏書房)による。Bは私蔵コピー版。
 これらから推測できるのは、鴨東の今出川通は昭和2年以降、昭和15年以前に出現しているということであり、それに伴って「東今出川通」という言葉が、鴨東の今出川通を指すようになったということである。ちなみに賀茂大橋が架橋されたのは、昭和6年7月10日のことなので、それと一連の工事として鴨東の今出川通が造られたと考えるのが自然だろう。今出川通の延伸工事それ自体については調べがついていないのだが、昭和6年あたりが鍵となりそうな気配である。

 ところで、昭和6年という年代だが、昭和4年に行政区分の再編が行われて中京区、左京区、東山区が創出され、昭和6年には伏見市が京都市に組み込まれるとともに右京区、伏見区が誕生している。いわゆる「大京都」の時代である。前掲Bの地図のタイトルが「大京都市街地図」であったことを併せて考えると、まさに京都市がどんどん拡張していた時代でもある。この動きの一環として今出川通の延伸を考えるのであれば、状況的にも辻褄が合う。

 さらにいえば、この京都市の拡張と歩みを一つにしていると考えられるのが、市電の整備であり、今出川通の延伸も、その路線整備と重なってくる。鴨東エリアにおける今出川通の市電路線が開通した年次は、「河原町今出川(河今)-百万遍」が昭和6年9月18日(『さよなら京都市電』、京都市交通局編・発行、昭和53年)となっているので、この点でも符合する。これに先だって、「百万遍-銀閣寺道」が昭和4年5月14日に、「熊野-百万遍」が昭和3年1月13日に営業を開始しているので、これら一連の路線整備によって市街の中央部と鴨東エリアが市電によって巡回できるようになったわけである。

 現時点で分かってきたのは、おおよそ以上のような内容なのだが、昭和6年頃に行われた今出川通の延伸に伴って、それ以降は「東今出川通」という言葉が、鴨東エリアの今出川通について使われるようになったという予想は、おそらく正しいものだったと思われる。ただ、当初の課題である、現在の出町柳駅前通がかつては「東今出川通」と呼ばれていたということに関しては、いまだ仁丹版の記述以外に裏付けとなる資料は見つかっていない。
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by office34 | 2008-11-30 22:32 | 町名看板
2008年 11月 19日
志賀街道
 京都に志賀街道という古道がある。志賀越道ともいい、洛中から比叡山を越えて坂本・大津に通じる道である。現在では、府道30号線の部分、つまり北白川別当町から山中越、そして西大津バイパスに抜ける部分がイメージされやすいが、ここで取り上げるのは、そこに至るまでの部分、鴨東エリアにおける志賀街道である。具体的には、荒神口から京都大学本部講の南側を経て今出川通に出てくるまでの間についてである。この志賀街道が気になってきたのは、先般触れた「東今出川通」の流れからだった。

 「東今出川通」については、鴨東の今出川通(川端通今出川~北白川通今出川)が整備された年次を調べることを宿題に挙げておいたが、それは放り出されたままである。ただ今出川通の来歴・沿革を調べる以前に、そういえば鴨東には志賀街道という古街道があったじゃないか、明治以前からの道なんだから、当時はこっちがメインストリートだったはず、となったのである。

 かつての京都、具体的には江戸時代のそれを意識しているのだが、その原型は秀吉の京都大改造によって造られた。聚楽第を中心にして御土居で囲まれた城下町である。その後、聚楽第が破棄されただけでなく、御土居による外枠も時代の流れので曖昧になってゆき、秀吉時代の姿は失われていった。ただそうした変遷の中で地名として残されたのが、いわゆる「七口」である。いま問題にするのは鴨東における「口」であり、それが志賀街道の起点でもある「荒神口」である。

 さて詳しい資料類に当たったわけではないので江戸時代の道路事情、その正確なところは理解できていないが、東海道以北の鴨東エリアについていえば、「大原街道」や「志賀街道」など、今に「××街道」と名を残すものがメインであり、その他は田野の小径といったところだったのではないだろうか。今出川通を東に伸ばしたラインは、今の京都大学の敷地と重なる尾州家屋敷の北側だし、百万遍の知恩寺も由緒のある寺院だから、このあたりを通る道がなかったはずはない。しかしメインストリートがどこだったのかという話になると、志賀街道や大原街道の方を中心に考えるのが妥当である。

a0029238_2322265.jpg 現在の志賀街道は、住宅街の中の路地といった印象であり、交通量の多さで比べると北側の今出川通や南側の丸太町通に圧倒されている。今出川通や丸太町通を持ちださずとも、もう少し細い通りと比較しても、近衛通や東一条通の方が車の往来は激しい。ただ志賀街道には、古い時代の名残を感じさせる側面が残されている。たとえば、東大路通と東一条通の交差点の北東角、この場所は荒神橋からの志賀街道が北東に進んできて東一条に合流する場所でもあるわけだが、そこには「吉田本町道標」と呼ばれている古い道標がある(写真クリックで拡大)。宝永六(1709)年建立の石の道標である。さらに京都大学の敷地を迂回するように進んだ後、東側に回り込んで今出川通に出る箇所には「北白川西町道標」がある。こちらは、嘉永二(1849)年建立である。「吉田本町道標」「北白川西町道標」、これらはともに京都市の史跡として登録されていて、「フィールドミュージアム京都」のいしぶみデータベースにも情報が掲載されているので、詳しくはそちらを参照していただきたい。
・「吉田本町道標」→坂本・唐崎・白川道【道標】SA075
・「北白川西町道標」→三条大橋二十五町・祇園・清水【道標】SA076


 志賀街道のことを意識しないで、これらの道標を考えると、なんとも中途半端な場所にあるものだなと思ってしまうが、かつては鴨東のメインストリートだった志賀街道の存在を重ね合わせると、適切な場所に適切な道標が置かれたことが分かる。
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by office34 | 2008-11-19 23:25 | 町名看板
2008年 11月 18日
京都の秋(9) 真如堂11/18版
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 京都でも、そろそろ有名スポットの紅葉が見ごろに入りつつあるらしい。神護寺では、すでにピークを過ぎたとの情報もあるが、三千院あたりでは今が一番の見ごろだとか。

 ということで、当方もどこか有名スポットに出向いてみようと思い立って、東山は真如堂を訪れてみた。東山の紅葉スポットといえば、何と言っても永観堂がトップに来るのは間違いがない。その永観堂の知名度に隠れてという訳でもなかろうが、真如堂は穴場的な場所……というのは、すでに数年前までの話。今や永観堂、南禅寺に次ぐくらいの知名度と人気を誇っている。金閣寺や龍安寺があることで有名なきぬかけの道周辺では、龍安寺の知名度に隠れて等持院が穴場的な存在になっているが、ちょうどそれに近いポジションに、かつての真如堂もあった。紅葉のシーズンでない平日なら、閑散としていて、ご近所さんらしい風情のお年寄りが散歩をしている境内が、今のシーズンはツアーの団体さんを始め、たくさんの観光客で賑わっている。

 と冒頭から戯言モード。たくさんの観光客は、お寺にとっても大きな収入源になるわけで結構なことなのだから、それはそれということにしておくしかないだろう。他人がカメラを構えてアングルの微調整しているその前に入ってきて、記念写真を撮ろうとすることくらいを慎んでもらえれば、当方としては特に文句を並べ立てるつもりはない。ま、これも有名スポットだから諦めるしかないといえば、それまでではあるが……。

 で、肝心の本題。真如堂における紅葉の進み具合だが、盛りを迎えている木が半数くらいといったところだろうか。見どころのメインとなる参道から見上げる三重塔を始め(写真クリックで拡大)、写真に切り取ってくると、見映えのする部分だけが抽出されてしまうが、みごとに赤く染まっているモミジがある傍らで、まだまだ緑のままで待機している木も多い。この週末あたりで大きく冷え込むとかの話があるから、まさに次の連休あたりで一番の見ごろを迎えるのだろう。

-真如堂の写真いろいろ-
上段左:本堂から眺める三重塔、右:山門周辺だけを見ると今がピーク?
中段左:落ち葉の色合いも見どころ、右:本堂の裏手より
下段左:本堂の裏手には待機組、右:三重塔の裏側も待機組ゾーン

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by office34 | 2008-11-18 18:16 | 街角の風景
2008年 11月 08日
東今出川通の仁丹さん
 「東今出川通」という呼称がある。今出川通については、同志社や京大の前を通る大通りなので、なんの説明も要らないと思うが、果たして「東今出川通」と言われてピンとくる人はどれほどいるだろうか。もっともらしく説明するとすれば、「今出川通」の中で鴨川から東側を特に「東今出川通」と呼ぶ、という説明が一般的だろう。確かにwikipediaの「今出川」の項目にも似た説明があるし、東鞍馬口という言い方もあって、これもまた鞍馬口通の延長線上で、鴨川を越えての一帯を指している。おそらく、それで間違いはないのだろうと思うが、ふと奇異なものに目が留まった。昨日の記事で取り上げたヒラメビルの一節で、仁丹版の町名板に触れたのだが、そこで紹介した田中関田町の町名板の写真を見ていると、この「東今出川通」という記述があり、しかもそれが上に書いたものとは相容れない理解に立っているのである。

a0029238_3204026.jpg まずは、具体的に写真を出してみる(写真クリックで拡大)。この界隈にある仁丹版の町名板は二枚で、百万遍の交差点から出町柳駅前まで続く路地に貼られている一枚(上)と、その路地と鞠小路の交差点を少し下った場所にある一枚(下)である。と言っても、土地鑑の少ない人は、おそらくこの段階で話が分からなくなっているはずだから、少々、補足説明をしておこう。

 キーワードは「今出川通」「百万遍」「鞠小路通」。まず今出川通とは、今更ながらの説明だが、御所・同志社・京大の前を通る東西の大通りである。この今出川が、南北の大通りである東大路通と交わる交差点が「百万遍」で、東大路から一筋西に入ったところにある南北の車道が「鞠小路通」である。またこの界隈の通りは、今出川と東大路以外に、百万遍の交差点から叡電出町柳駅前に直通する細い路地(今出川通の少し北側)があり、「叡電駅前通」と通称されていたと思う(「出町柳駅前通」だったかも?、記憶不確か)。まだ空間的な把握が難しい場合は、googleマップなどで確認するのがいいだろう。

 さて、以上のことを前提として、町名板の場所を説明し直すと、一つは鞠小路通と叡電駅前通の交差点から東へ入ったところ、もう一つは同じ交差点から南に下ったところとなる。そこで、もう一度、写真を見ていただきたい。一つには「東今出川通鞠小路東入」とあり、もう一つには「鞠小路東今出川下ル」とある。この記述に即するのであれば、「叡電駅前通」と通称している路地こそが「東今出川通」となってくるのではないだろうか。一つは東今出川通と鞠小路の交差点を東に入ったところであり、もう一つは鞠小路と東今出川通の交差点を下ったところ、と言っているのである。

 最初に紹介した鴨川以東の今出川通を東今出川というとの理解に即すると、町名板の記述が誤りということになってくる。当方も、最初に奇異に思ったのは、この点であった。昨日、アイワオートのヒラメビル(今出川鞠小路南東角)の近くにある仁丹版ということで触れたわけだが、その際に意識していたのが「鞠小路東今出川下ル」の方で、「鞠小路東・今出川下ル」と解釈して、下ル?・・・ってなんで??、上ルじゃないの?これはもしかすると間違いを発見したのではないだろうか・・・と、俄然張り切ってしまったのである。

 仁丹版の記述ミスとしては、綾小路西洞院のものが「西洞院」→「西院」となっているケースが報告されているが、それに匹敵するミスを見つけたのかも知れないと考えたのである。ところが、同じ場所にあるもう一枚を確認すると、そちらは「東今出川」から始まっているので、件の一枚も当方が考えたような「鞠小路東・今出川下ル」ではなく「鞠小路・東今出川下ル」であることがわかり、がっくりさせられたのだった。思えば「鞠小路東・今出川下ル」だったとすれば、「鞠小路東入」とあるのが仁丹版流の文法だから、単なる早とちりに過ぎなかったわけだ。

 ただ、そこで落ち着いて考え直すと、東今出川通に対する理解が、現在一般に通用しているものと違っているんじゃないかという点に気が向いてきた。実際のところ、ミスとかの次元ではなく、現在「駅前通」と呼んでいる路地が、昭和の初め頃は今出川だった(鴨東なので東今出川になる)という方向で考えるのが有効な気がするが、確かめるのなら、古い地図を引っ張り出してきたり、今出川通が現在のような形に拡幅されたのがいつのことかなどを調べる必要がある。またそのあたりのことが判ってくると、この件については改めて触れようと思う。
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by office34 | 2008-11-08 03:30 | 町名看板